富士通企業年金基金で常務理事16年。その後、米国の運用会社ニューバーガー・バーマンの日本法人でアドバイザー14年。年金運用の「現場」に立ち続けた田中敬久(たなか・たかひさ)さんが75歳を迎え2026年2月末、一線を退きました。「5・3・3・2」運用規制の撤廃、3年連続マイナス運用から代行返上、リーマン・ショック、コロナ禍。生き字引が年金「界隈(かいわい)」の30年を毎月、1話ずつ語り継ぎます。(聞き手:阿部圭介J-MONEY論説委員)

田中敬久氏
ニューバーガー・バーマンを退社する直前、同社の自席で。ディスプレイに、米国にいる同社CEOが田中さんの功績を労うビデオメッセージが映っていた=東京・丸の内の新丸ビルで

業界横断の勉強会主宰し17年

2026年3月24日、東京駅前の新丸の内ビル。ニューバーガー・バーマンの1室にリモート参加を含めた20人ほどの男女が集まっていた。大きなテーブルの中心に田中敬久さん、通称「KQ(けいきゅう)さん」が陣取っていた。

ニューバーガー・バーマンを2月末で退社して「素浪人」になったはずではありませんか。それがなぜ、古巣に?

田中 ぼくが主宰する年金運用の担当者による勉強会です。年に4回ほど開催していて毎回、いろいろな運用会社の会議室を借りています。それが今回、たまたまニューバーガーだったというわけです。

「文殊(もんじゅ)の知恵勉強会」ですね。企業年金の運用執行理事や公的機関、大学などの運用担当者が集まっていると聞きました。

田中 富士通企業年金基金にいた時に始めて17年。今回が72回目です。基本的に講師を招かず、私がテーマを決めて参加者全員が意見を出し合う会にしています。

ちょっと前から私もオブザーバー参加させてもらっていますが、「いろいろな組織の運用担当者の本音が聞けて、とても勉強になる」といった声を聞きます。首都圏だけでなく遠方からの参加者もいますね。田中さんの知見、ネットワーク、そしてフランクな人柄が人々を吸い寄せるのかな。それにしてもニューバーガーを辞めたのに、勉強会は続けているのですね。

田中 「次はウチで開催してほしい」という運用会社からの要望が数件あるし、幸いぼくも元気。自発的な勉強と交流の場を続けるお手伝いだと思っています。

田中さんは1951年2月、東京生まれ。「数学が大好きで英語が大の苦手」。麻布高校から当時、「文系で唯一数Ⅲが受験科目にあった」大阪大学経済学部へ進んだ。「これからはコンピューターの時代になる」と考え、大学在学中に日本IBMの「インターン」を経験。1974年、富士通に入社。同社の社名がさほど知られていない頃で、親類から「運送会社に行くのか」と言われた。入社後は財務畑一筋。為替のディーリングで「大儲けしたことも」。韓国ソウル駐在から1996年、当時の富士通厚生年金基金へ。後身の企業年金基金常務理事を退任後、2012年にニューバーガー・バーマンへ「エグゼクティブアドバイザー」として入社。2026年2月末、退社。

社員14人だった会社が120人に

企業年金基金を退任した時に「これからは悠々自適に」とは考えなかったのですか。また、なぜニューバーガー・バーマンに入られたのでしょうか。

田中 「悠々自適」というのは選択肢になかったなあ。まだ、バリバリ働きたかった。その辺りを見ていたのか、基金の最後の頃に、運用会社4社から声が掛かりました。その中で、一番規模が小さかったのがニューバーガー。当時、社員は14人しかいませんでした。「よし、ここだ」と。

普通は逆ですよね。一番大きくて安定していそうな所を選ぶものでしょう。

田中 規模の大きい会社へ行けば、「顧問」として立派な机や秘書をあてがわれる。そこで新聞や雑誌を読み、ときどき営業のお供をする。そういうスタイルではなく、自分自身で動いて積極的に営業の支援をしたかった。性分なのですよ。だから企業年金だけでなく銀行や公的年金、大学法人も回りました。その後、会社も規模を拡大して今は社員が120人。もちろん、社員みんなの努力によるものですが、退任時に本国のCEOのジョージ・ウオーカーからビデオメッセージが送られてきました。「タナカさんの尽力により、日本で確固たる地位を築けた」。そう言っていただいたのは、ぼくにとっての勲章です。

流れに逆らい、あえて挑んだ

今回のインタビューの中で、田中さんからA4の紙を1枚渡された。最近、歌手の小椋佳による「生前葬コンサート」をテレビで見て思わず、その中の1曲を書き写したという。

早い流れ 急な流れ 若さを抱え 僕らは ボートを降ろし

敢えて挑んだね 川下から 川上へと 流れに逆らい

決して 楽は望むまい それを誓ったね

僕らを あの日襲った囁き 河に飲み込まれるな 下るなと

聞いた 信じてみたんだ 漕ぎ昇る先の夢を

「流されはしなかった」(作詞:ERIC CAEMEN・日本語詞:小椋佳、作曲:ERIC CAEMEN)の歌詞の一部

なにか、ぐっと来ますね。

田中 「これ全部おれのことじゃないか」。そう思えたのです。

・大学同期の多くが銀行や商社を志望する中、コンピューター専業でまた小さかった富士通を選んだ。
・エリートコースの海外駐在を拒んだ。
・上司とぶつかりながら、しかし為替で大きなリターンを稼いだ。
・企業年金の給付削減の必要に迫られた時、経営陣と労組の板挟みになった。
・DC導入に抵抗した。(自分が基金退任後に導入された)

振り返ると、そんなことばかりが脳裏をよぎります。

「年金運用人材」育成に役立ちたい

企業年金連合会でもなく、企業年金連絡協議会でもない私的な勉強会が、これだけ長く続くのは驚きです。

田中 企業年金の運用担当者らによる「手弁当」だから、講師に頼らず自分たちで勉強し合おうという姿勢だからこそ、実践に役立つという実感を得られているのだと思います。そのメリットを生かして、今後も運用人材の育成に微力を尽くしたいと考えています。

見て、聞いて、感じた「年金界隈」の証言

田中さんが年金運用と歩んだ30年は、日本と世界の経済環境が激変を重ねた年月と重なります。厚生年金基金や、その後企業年金が浮沈を繰り返した時代でもあります。この連載では、田中さんが見て、聞いて、感じたことを時系列に沿いつつ聞いていきます。年金界隈の稀有な生き字引による「歴史の証言」になれば幸いです。
次回「財務一筋、45歳で常務理事」(仮)は5月7日(木)ごろ、記事公開の予定です。
(阿部圭介)