聞き書き「年金運用30年」 【第3話】運用開始いきなり「冬の時代」〜生き字引・田中敬久のよもやま話〜
富士通企業年金基金から米運用会社ニューバーガー・バーマン。30年にわたり年金運用の現場に立ち続けた田中敬久さんの聞き書き第3話です。今回は、田中さんが1997年に基金の常務理事に就任して、次第に運用の中身をブラッシュアップしていく時期にスポットを当てます。当時、世界的に資産運用は低迷し、その後、日本では生命保険会社が次々に経営破綻。2000年初頭にはITバブルが崩壊します。この「運用冬の時代」に、新米の常務理事はどのように立ち向かったのでしょうか。(聞き手:阿部圭介J-MONEY論説委員)

運用部隊、川崎工場から丸の内へ
前回の第2話の写真は、川崎工場の一角にあった厚生年金基金の事務局で、当時のメンバーに田中さんが囲まれるシーンでした。
田中 ええ。ところが、基金の運用成績などを報告する相手のCFO(最高財務責任者)は丸の内の本社にいて、毎日のように「今からすぐ来い」。運用成績、そして為替や株価の今後の見通しを聞くために呼び出されるのですが、そのたびに往復3時間かかる。これでは仕事にならない。お願いして、私を含む運用チームの3人だけが本社の財務の一角に移りました。
それ以降は川崎工場と縁が切れたのですか。
田中 それが違うのです。というのは、当時は何でも紙ベースですから、裁定や給付関連などでハンコを押さなければならない。そのたびに川崎の事務局に戻るのです。しかも基金の加入者等は10万人ほどいて、押印の数がすさまじい。そこで基金の理事長、つまり母体の人事担当常務に頼んで常務理事を2人体制にしてもらいました。私が運用、もう1人が制度という住み分けです。当時も今も「2人常務理事」は珍しいと思います。
理事長と対立、「辞めようと思った」
ということは、理事長は理解のある方だったのですね。
田中 基金の体制整備という点では、その通りです。しかし運用面では全く違いました。
どういうことですか。
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