林 信光
国際協力銀行
代表取締役副総裁
林 信光

まだトランプ大統領だ。自分が敗れたことは認めているだろうか。選挙結果の受け止めを含めてトランプへの批判は数多くあるけれども、私が気になっていたのは、彼の言動、特に外交がtransactionalだと評されてきたことである。transactionalという言葉を辞書で引いても、概ねtransactionの派生語とされているだけで固有の意味は与えられていない。トランプを批判的に語る文脈で使われているから、ネガティブな表現に違いない。しかし、私も含めて本誌の読者の多くはtransactionを生業としている。取引とは卑下すべきことであろうか。

トランプ外交の何が批判されるべきであったか

批判の趣旨は、外交はtransactionalでなく党派を超えた一貫性を持って追求すべきもの、リベラルな国際秩序、人権や気候変動といった理念を掲げて米国が世界を主導するものだということであろう。しかし米国の外交は、ときには抑圧的な専制君主を支持するように、現実的というよりご都合主義であったことを我々は知っている。日本との貿易交渉では日本市場の閉鎖性を糾弾しつつ、自由貿易原則の徹底を求めるわけではなく、特定の業界の利益を代弁していた。理念を説くばかりで現実に国民の利益を代表していると目されない外交では、国民の支持を得がたい。オバマ外交を批判するトランプのツイートは誠に痛快に響く。

これからの債券投資を考える

では不動産で鍛えたトランプの取引はそんなに立派だったかというと、イランや北朝鮮では進展が見られなかったし、あまり代わり映えのしないUSMCAにサインした。力を入れた対中交渉は、習近平を持ち上げた割には結実しなかった。タリフマンを自認する彼の制裁的関税は、当該産業が一時的に潤っても、結果的には米国の製造業はコスト高となって雇用を減らしたと批判される。

もっとも評価すべき面もある。UAEとイスラエルの国交正常化の演出などは、固定観念に囚とらわれない創造的な外交といえよう。しかし、ここでも問題となるのは、トランプが新たな秩序を構築しようとしたのではなく、もっぱら自らの選挙に有利になるように取引をしたのではないかということ。そのような問題の最たるものが、ウクライナに援助と見返りにバイデンの捜査を求めたという疑惑である。こういうトランプであれば、説明責任を問われない独裁主義的なリーダーにとっては、トランプが喜ぶことをしておけばいいから御しやすいし、トランプもそういうリーダーが好きだということになってしまう。

「取引」とは本来どういうものであるべきか

このように見ていくと、トランプが行っていると想定される取引は、我々の営む取引とは相当異なることが分かる。取引も法令や慣習などの規範に基づいて行われる。相手と合意できれば何でもいいわけではないし、1つの取引が他の取引や市場における信用力にも関わってくる。カルタゴに流れ着いたフェニキア人は、牛の皮一枚分の土地しか譲ってもらえなかったところ、皮を長い紐に切り広大な土地を手に入れて、後にローマと覇権を争う街を築いたと伝えられる。このようなやり口が、ニューヨークの不動産取引で許されるわけではなかろう。ましてや、会社の損失を個人の受益と取引するのは犯罪である。

ワシントンの有識者から見ると、不動産取引も我々の行う取引も、彼らの高邁な理念に比べれば取るに足らない存在でしかないのだろうか。そういうヒラリー的な目線が、4年前も今回もトランプにこれだけ票が集まると予期することを妨げたのではないか。民主主義は大衆に支持されてなんぼ、である。それに最も成功した現職の大統領がトランプ。さらにこれを上回る票を動員できたからバイデンは勝ち得た。米国の民主主義のダイナミズムはまだ生きている。

帝政に移行する前夜のローマにおいて第一の有識者とされたキケロは、「自分は大衆の拍手喝采など常に軽蔑する人間だ」と言い放ったが、ほどなく大衆に人気のある政治家に惨殺され、やがては彼の愛した共和制も幕を閉じる。リベラルな国際秩序といった理念の前に、米国の民主主義の現実が問われている。

ちなみに私はtransactionalでありたい。理念を現実にするために。