プロの視点 デジタル化を阻むもの ──「ルール」が制約になるか
1980年代初めに新卒で入った前職場には、1000人以上働いているオフィスにファックスを使える場所が1つしかなかった。外部に急いで情報を送る際には、係長にハンコをもらったうえでその部署に駆けつけ、ファックスを依頼する必要があった。業務時間を過ぎるとこのサービスが終わってしまうので、担当者と仲良くなっておいて、いざというときに何とか融通を利かせてもらうことが新人の重要な任務だった。
また、当時はワープロというものがなかったので、原稿はすべて手書きであり、新人は上司によって激しく赤字修正が入れられたものを清書することに相当の時間をとられた。清書する対象は、自分が書いた原稿に限らず、他人が書いた原稿であることもあった。要するに「清書」という仕事があったのである。統計部署では、棒グラフにスクリーントーンを貼る、などという漫画家アシスタントのような仕事も存在した。
こうした仕事は、パソコンやインターネットをベースとする各種の情報技術の登場によってすっかり姿を消して、オフィスの生産性は格段に高まった。いまさらながら、ここ40年の間に起きた情報技術革新のスピードに驚かされる。
昨日と同じやり方を求める慣性の力
最近では、外部との情報のやりとりに関して、まだ残っている書面のやり取りを廃してデジタル化を進めようという動きがみられる。デジタル庁創設の動きなど、政府の本気度も伝わってくる。しかし取引のデジタル化については、政府関連の取引に限らず民間ベースの身近な情報のやりとりについても、かねてよりその必要性が認識されてきた割にはあまり進んでいないように思える。昨日と同じやり方で今日も仕事したいという慣性の力は強く、書面の廃止に向けた取り組みのスピードは十分とはいえない。
ところで、情報技術革新の進み方は、社会が原則自由か原則禁止かによって、そのスピードが異なってくると言われる。つまり、情報技術が進歩すると、テクニカルにできることの辺縁が拡大するが、もし原則自由な社会であればルールが制約とならないので、新技術の登場でテクニカルに可能となったことはすぐに実行に移せる。
一方、原則禁止の社会であると、情報技術革新の進展によってテクニカルにできることが拡大しても、各種のルールが制約になって(あるいはなると思われて)実際には新技術を活用できない。すべてのことは原則禁止なので、「○○をしてよい」という制度改正を行わない限り、新技術を活用できないからである。通常、制度改正には手間がかかるので、技術革新のスピードに追いつかないことが多い。
原則禁止の発想からの脱却が必要
1980年代に「金融自由化」が叫ばれていたとき、「自由化の程度は、(制度的にできること)/(制度的にできること+制度的にできないこと)の比率でみるべきだ」との議論があった。つまり、わが国は原則禁止社会であるので、いくら自由化済みの項目を数多く挙げてみても先の式における分子の増加程度が小さ過ぎて、実際には自由化の進展度合いが不十分であることを指摘したものだ。当時と比較すると、現在は話にならないくらい情報技術は進歩しており、それが故にこうした問題がより顕在化している可能性がある。
もちろん現実には、原則禁止社会なのか原則自由社会なのかというように二分法で割り切れるわけではなく、敢えて言えばどちらに近いか、という程度の問題だろう。言い換えると、何か新しいことについては、「○○ができる」というルールを作らないと始められない(心配である)と考える人が多いかどうか、ということである。
身近なデジタル化が思うように進まない理由の一つは、案外、我々の頭の中が原則禁止社会の発想になっているからではないか。今後、デジタル化が大きく進展するためには、「明示的に禁止されているルールが存在しない限り、やってよいのだ」と考える人が増えてきて、社会のコンセンサスになってくることが必要なのかもしれない。