金融緩和が物価上昇に寄与した米国

藤代 宏一
第一生命経済研究所 
主任エコノミスト
藤代 宏一(ふじしろ・こういち)
2005年4月 第一生命保険入社。2008年4月 みずほ証券出向。
2010年4月 第一生命経済研究所出向。2010年7月 内閣府経済財政分析担当にて2年間経済財政白書の執筆、月例経済報告の作成を担当。2012年7月 副主任エコノミストを経て、その後第一生命保険より転籍。担当は、金融市場全般。日本証券アナリスト協会検定会員(CMA)、2018年 参議院予算委員会調査室客員調査員

米国は量的緩和の段階的縮小、いわゆるテーパリングが時間の問題になりつつある。毎月1200億ドルの資産購入額は2021年中にも減額が予想され、その後も米経済の回復が続けば、2022年末までに資産購入は終了する可能性が高い。このように大規模金融緩和の出口戦略が始まりつつあるのは、金融緩和が十分な効果を発揮し、その必要性が低下した結果と言える。

金融緩和の効果と聞くと真っ先に「株価上昇」を思い浮かべてしまう。しかしながら、新型コロナウイルス禍における米国の金融緩和は実体経済を刺激したことを認識しておく必要があるだろう。典型例は住宅市場。緩和効果の一つとして住宅ローン金利が急低下し、住宅市場が勢いづいた経緯がある。2019年末に約3.7%だった金利はFRB(米連邦準備理事会)の利下げとMBS(住宅ローン債券)を含む資産購入によって急低下し、2020年末には約2.7%まで水準を切り下げた。

消費者は住宅ローン金利の低下を「好機」と捉え、住宅購入に前向きになった。中古住宅販売件数は飛躍的に増加し、前年比2ケタ%の伸びを記録。新築住宅の需要も高まり、建設業者の景況感を示す指標は1985年の統計開始以来の最高を記録した。また住宅重要が建材、家具、家電といった関連需要を喚起したことで消費活動全般の回復に貢献した。

もちろん消費好調の背景には政府からの給付金効果も大きかったが、住宅ローン金利の低下が個人消費を刺激したことに疑いの余地はない。ここでのポイントは人々が金利低下を「好機」と捉えた、換言すれば「金利低下は一時的」と認識したことだ。今買わないと金利が上がってしまう、という思いが人々の消費を後押しした可能性が高い。

他方、日本でそうした現象は起きていない。都心の高級住宅(特にタワマン)が高騰するといった事象は観察されているものの、あくまでそれは局所的で全国レベルの動きではない。では、なぜコロナ禍における日銀の金融緩和は個人消費を刺激できなかったのか。一言でいえば「金融緩和慣れ」がある。米国と異なり、日本は2000年代の圧倒的大部分をゼロ金利(翌日物金利)で過ごし、長期金利( 10年国債金利)も1%未満が常態化し、直近5年は0%程度となっていた。

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そうした環境下で住宅ローン金利は長期にわたり極めて低い水準で推移し、過去数年は住宅ローン減税額(ローン残高の1%相当を税額控除)が支払金利を上回る「借りトク」と呼ばれる事象も起きている。この期におよんで低金利を好機と捉える向きは少なく、需要は刺激されなかった。

また同時に企業の設備投資を促す効果も限定的であった。社債発行が増えたのは、事業拡大のための積極的な資金調達というより資本効率向上の意図が強いとみられる。このような「金融緩和慣れ」は隠れた金融緩和の副作用と言ってもよいかもしれない。普段は「金利のある」米国と「金利のない日本」では金融緩和の効果は前者の方が大きく出る。金利が元から存在しない日本では金融緩和の効果は限定的というわけだ。

大幅な需給ギャップの中、企業は採算確保を優先

現在、消費者物価指数はGo toトラベルキャンペーンによる宿泊費の下落、携帯電話料金の一斉引き下げといった特殊要因によって攪乱(かくらん)されているため実勢把握は困難であるが、そうした特殊要因とエネルギーを除くと、実勢は0%台前半とみられる。デフレの定義を「物価の持続的な下落」とするならば、現在の日本経済は辛うじてデフレを回避できていることになる。大幅な需給ギャップを抱えている割には底堅い印象だ。

通常の経済では、需給ギャップがマイナスの状態で物価は下落する。何らかの要因で需要不足に直面すると企業は値下げによって需要を掘り起こそうとし、同時に採算確保のために人件費削減などを通じて総コストの抑制に取り組む。こうしたメカニズムの下、物価と賃金は相互刺激的に下落し、一度そうした状況に陥るとなかなか元に戻ることはない。1990年代後半から2012年頃までの日本経済はこうした状況にあった。

需給ギャップは内閣府と日銀がそれぞれ推計値を公表している。内閣府は需給ギャップを「経済の過去のトレンドからみて平均的な水準で生産要素を投入した時に実現可能なGDP(国内総生産)」と定義している。つまり、供給能力(潜在GDP)と需要(実質GDP)の差である。

2021年4 ~ 6月期時点で需給ギャップはマイナス4.0%と推計されており、これは潜在GDPに対して22兆円程度(年換算)の需要不足が生じていることになる。算出方法の違いにより、日本銀行の推計ではもう少し小さい値になったとみられるが、いずれにせよ大幅な需給ギャップを抱えていることは間違いない。

では、なぜデフレを回避できているのか。現段階で明確な答えは出ていないが、それはコロナという特殊環境が影響している可能性が濃厚だ。コロナ禍における需要不足は、通常の景気後退局面とは異なり、人々の活動に制限がかかるという特殊性がある。そのため、果敢な値下げを実施したところで客足が急回復しないことは自明であるから、企業は採算確保を優先したと考えられる。

実際、企業サーベイから判断すると、企業が値下げによって需要を掘り起こす戦略に距離を置いている様子が浮かび上がる。日銀短観で非製造業の価格設定スタンス(販売価格判断DI =売価を上げたと回答した企業数と売価を下げたと回答した企業数から算出)を確認すると大企業、中小企業ともにパンデミック発生前の水準に戻りつつある(非製造業を重視したのは原油高の影響を受けにくく、消費者段階における価格設定スタンスを推し量るため)

コロナ対応で発生したコストを価格に転嫁している可能性もあるだろう。個人消費の不振が長期化し、大幅な需給ギャップが生じているにもかかわらず、これまでのところ企業は値下げ競争に慎重である。

では、コロナが収束した後、米国のような高インフレになるかというとその可能性は低いだろう。筆者はむしろ飲食店や小売など一部のサービス業で値下げ競争が加速する可能性があるとみている。仮に感染が期待どおり封じ込められたとしても、コロナ禍で傷んだ雇用・所得環境が完全回復しなければ、消費者は支出をためらう。またコロナを契機としたライフスタイルの変化は相応に残存すると予想され、外食や衣料品などといった業種は構造的な需要減少に直面する可能性も否定できない。

そうした下で大手企業はDX(デジタルトランスフォーメーション)や省力化投資の利を活かし、価格勝負に持ち込み、シェア獲得を狙う可能性がある。実際、これまでテナント料などコスト面の問題で都市部への出店が難しかった一部大手外食チェーンが、コロナ禍後のリバウンドを見据えて都市部への出店(計画)を加速させているといった動きもある。経済活動の制限が完全に解除されれば、こうした戦略は理に適うだろう。

コロナ感染状況が大幅に改善したとしても、個人消費の刺激策が十分でなく、需給ギャップが残存したままであれば値下げ競争が加速する可能性がある。デフレの脅威はコロナの後にやってくると考えておいたほうが良さそうだ。