物価目標の引き下げには共同声明の再作成が必要

藤代 宏一
第一生命経済研究所
主任エコノミスト
藤代 宏一(ふじしろ・こういち)
2005年4月第一生命保険入社。2008年4月みずほ証券出向。2010年4月第一生命経済研究所出向。2010年7月内閣府経済財政分析担当にて2年間経済財政白書の執筆、月例経済報告の作成を担当。2012年7月副主任エコノミストを経て、その後第一生命保険より転籍。担当は、金融市場全般。日本証券アナリスト協会検定会員(CMA)、2018年~参議院予算委員会調査室客員調査員

日本銀行が2021年4月26、27日の金融政策決定会合で示した「経済・物価情勢の展望(以下、展望レポート)」は、2%の物価目標達成がいかに困難であるかを再確認させた。展望レポートの消費者物価の見通しは、予測期間の最終年度である2023年度でもプラス1.0%と2%に遠くおよばない数値だ。

これは黒田東彦総裁の任期満了にあたる2023年3月までに物価目標が達成できないことを意味する。かつての日銀は、2、3年先には2%の物価目標が達成されるとの楽観的見通しを示す傾向にあったが、ここ数年、特に新型コロナウイルスのパンデミック発生以降は現実的な見通しを提示するようになっている。

もちろん、日銀は公式的には物価目標を諦めておらず、「2%目標は達成可能」、「物価目標を見直すのが適切とも、その必要があるとも考えていない」と振る舞っている。金融政策が効かなかったのではなく別の要因が大きかったとして、今後も金融緩和を粘り強く続けていけば物価上昇率2%が達成されると説明している。

こうした見解は、金融緩和のみで物価上昇率を引き上げるのは非現実的であるという、多くの専門家の認識と隔たりがある。黒田総裁が就任したアベノミクス発足当初は、デフレは貨幣的な現象であるとして「おカネをたくさん刷ればそれだけで物価は上がる」といったシンプルな主張もあったが、7年超におよぶ大胆な金融緩和にもかかわらず、物価上昇率が高まらなかったことで、金融緩和の効果に限界があることが証明されてしまった形だ。

政策当局者としての日銀が物価目標をそう簡単に諦められないのにはそれなりの事情がある。大前提として認識しておくべきは、2%の物価目標はデフレ脱却が国策級の課題として扱われていた2013年1月(※黒田総裁の就任前)に、政府との共同声明を念頭に置いて(白川方明氏を総裁とする日銀が)定めた経緯があるからだ。

仮に物価目標を引き下げるとして、それにあたっては政府との共同声明を再作成する必要があり、日銀単独ではどうにもならない面がある。2023年3月の黒田総裁任期満了を控えて、一部の識者は「次期総裁は物価目標を現実的なレベルに引き下げるべき」と指摘するが、果たしてその時の政権は共同声明の書き換えに賛同するだろうか。筆者はその可能性が低いと考えている。

日銀は物価上昇が達成できなかったことについて、どういった見解を示しているのだろうか。2021年3月に発表された金融政策の「点検」では、次の3点に重点が置かれ説明されていた。

①予想物価上昇率に関する複雑で粘着的な適合的期待形成のメカニズム
②弾力的な労働供給による賃金上昇の抑制
③企業の労働生産性向上によるコスト上昇圧力の吸収などから、物価上昇率が高まりにくい状況が続いた

このうち②と③はやや重複する。まず弾力的な労働供給とは、労働集約型産業を中心に人手不足が顕在化するなか、それまで非労働力層であった女性や高齢者が(日銀の想定以上に)労働市場へ流入したことで、単位当たりの労働コスト上昇が抑えられたことを指す。それによって、企業は価格競争力を維持したため、結果的に価格転嫁が進まず、値上げが浸透しなかったという説明だ。経済全体でみれば好ましい現象ではあるものの、物価に対してはマイナスに効いたという見解である。こうした説明は多くのデータで裏付けられており納得感はある。

重要かつ難解なのは、①の予想インフレ率に関する部分だ。まず、日銀は物価上昇が達成される経路を「需給ギャップがプラス(需要>供給)の状態で、現実の物価上昇が長く続くことで、人々の予想物価上昇率が上昇し、やがて2%へ向けて物価上昇率が高まる」と説明している。このうち需給ギャップはコロナパンデミック発生以降こそ大幅なマイナスであるが、2017~ 2019年は大半の期間でプラス圏にあったから、物価上昇の条件を満たした状態にあった。それにもかかわらず現実の物価上昇率が高まらなかったのは、人々の予想物価上昇率が低かったゆえに、値上げを前提とする経済活動が定着しなかったという説明である。

現在の予想物価上昇率は調査対象(企業・家計・エコノミスト)によってバラつきがあるものの、過去5年程度は総じてみれば1%前後で推移しており、コロナ前の2019年でさえほとんど加速感はみられなかった。ではなぜ需給ギャップがプラスの状態で、現実の物価上昇率も辛うじてプラスを維持したにもかかわらず、予想物価上昇率は高まらなかったのだろう。

日銀のより詳細な分析に基づけば、日本の予想物価上昇率は、現実の物価上昇率に「適合的」な要素が強いとされている。現実の物価上昇率が低いと人々はその状態が今後も続くと考える傾向が強いということだ。約20年にわたって物価上昇率が低い(下がる)状態にあった日本では、物価が上がらないことを前提とする経済活動が定着してしまったと結論付けており、こうした粘着的な思考パターンを変化させるのは不確実性が高く、時間もかかると説明している。端的に言えば、「もっと長くインフレを経験する必要がある」ということだ。

米国の中長期予想インフレ率はコロナ前水準の2.5%前後

これだけ粘着的な日本の予想物価上昇率を引き上げるには、人々の常識を覆す出来事が必要に思える。その点、現在の米国は日銀が羨(うらや)むような状況だ。2021年4月の消費者物価が前年比プラス4.2%と大幅に上昇し、インフレ「懸念」とも言われている。これは比較対象の2020年4月の数値が異常に低かったことで前年比上昇率が誇張されているのだが、前月比でも明確な上昇基調にあり、経済活動正常化に伴って物価の基調は確実に上向いている。

食料とエネルギーを除いたコア物価も前月比プラス0.9%、前年比プラス3.0%と強い。そうした下で人々の予想インフレ率は上昇傾向にある。債券市場参加者の中長期的な予想インフレ率( 5年先5年インフレ・スワップ)は2.5%前後まで水準を切り上げており、コロナパンデミック発生前と同程度かそれ以上に戻している(図表1)。過剰とも言われた大胆な景気対策でマクロの家計収入が飛躍的増加を遂げ、個人消費が鋭角に回復したことで、企業は値下げ競争で需要を掘り起こす必要がなくなり、コスト上昇に見合った値上げを実施しているとみられる(図表2)。

図表

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こうしたマクロファンダメンタルズの回復を目の当たりにした債券市場参加者は、中長期のインフレ動向がコロナパンデミック発生前に戻ると判断したのだろう。債券価格から逆算した予想インフレ率は完璧な尺度ではなく、しばしば歪みが指摘されることを割り引く必要はあるが、少なくとも債券市場参加者は「コロナデフレ」を危惧される状況には全くなっていない。

では、日本の政策当局者が米国の事例をどう活かすだろうか。筆者が思うに、今後は「物価は財政政策が決める」という新たなコンセンサスが形成されるのではないか。こうして考えると、次期日銀総裁のミッションは政府から財政支出を引き出すことで物価目標を実現することになりそうだ。もし、米国のような異次元の財政支出が実現すれば2%の物価目標は達成可能だろう。裏を返せば2%目標はそれほど難しいということだ。