3つの構造的円安要因と2つの円高リスク 力強い円安基調を崩す可能性のある「質への逃避」と「トランプ2.0」
ドル円市場で1ドル=160円台を付けるなど、ここ数カ月の円安基調には目を見張るものがあった。筆者は巷でよく議論される内外金利差以外に、主に3つの構造的な要因がこの円安基調をもたらしていると考えている。当面、円安の流れを変えることは容易ではないだろう。では円安への視界は曇りなしかというと、少なくとも2つの円高リスクに注意が必要だろう。(記事内容は2024年5月7日時点)
円は対ドル、対ユーロで歴史的な下落
東京外為市場が「昭和の日」で休場であった2024年4月29日に、円相場は対ドル、対ユーロで、それぞれ160円台、171円台まで下落した。ドル円相場が160円まで上昇するのは1990年4月以来34年ぶりである。また、ユーロ円相場が171円まで上昇するのは、1999年1月のユーロ導入以来初のことであり、対西独マルクで換算で円が同水準まで下落したのは、おそらく1992年9月の欧州通貨危機の際に逃避通貨としてマルクが買われた直前の1992年8月以来約32年ぶりだ。
円の独歩安は、一般的に、日本と欧米諸国との大幅な金利差で説明されている。実際に、政策金利で比較すると、日本と米国・ユーロ圏間には約4%から5%の金利差が存在している。しかし、筆者は、2010年代以降、3つの大きな構造的変化が、円の独歩安をもたらしたと考えている(図表1)。
直接投資と介入で円高圧力解消
ここで、簡単な経済モデルを考えてみよう。日本の経常収支が対米輸出によって年間100円の黒字を計上したとする(輸入と貿易外収支はゼロと仮定する)。輸出業者は、受け取ったドル貨をA銀行で円転すると、A銀行は、100円分のドルロング・円ショートポジションの保有を余儀なくされる。
A銀行がB 銀行を相手にカバー取引を行っても、この100円分のドルロング・円ショートポジションは、B銀行に移行するだけで、この世から消えてなくならない。輸出が円建ての場合でも、米国の輸入業者と取引銀行の間で同額のドル売り円買いが起きるため、ドル建ての場合と同様の結果になる。
すなわち、一定期間の日本の経常収支が黒字であれば、その金額だけ、世界中のだれかが外貨ロング・円ショートポジションの新たな保有を余儀なくされる。わが国は長期的に経常黒字の計上を継続しているので、世界中のだれかによって、わが国の累積経常黒字の金額に相当する外貨ロング・円ショートポジションが保有されていることになる。ここでは、そのだれかを投資家と呼ぶ。投資家の外貨ロング・円ショートポジションは、日本が経常黒字国である限り増加を続け、経常赤字国に陥るまで減少しない。
わが国の累積経常黒字による外貨ロング・円ショートポジションの増加は、1971年のブレトンウッズ体制崩壊以来、常に外為市場における円高要因として作用してきた。なぜなら、内外金利差の縮小や米国による通商圧力、日本の地政学的リスクの軽減などにより、投資家は、折に触れて、外貨ロング・円ショートポジションの継続保有に消極的となるからである。
ただし、わが国の累積経常黒字による外貨ロング・円ショートポジションが、このような要因に大きな影響を受けない投資家に安定保有されれば、市場の円高圧力は軽減される。その代表が、わが国財務省による円買い介入であり、もう1つが、わが国企業による対外直接投資である。図表2は、1985年以来のわが国の経常収支とネット対外直接投資、外貨準備の増減を累積したもの。前述の説明に照らすと、累積経常黒字によって生じる外貨ロング・円ショートポジションは、一貫して増加していることが分かる。
一方、直接投資と為替介入が、1985年来、経常黒字の一部を吸収する役割を果たしていたものの、累積円ショート額は、2010年頃まで増加傾向を続けた。しかし、2010年代以降、主に直接投資の増加によって、累積円ショート額は横ばいで推移するようになった。すなわち、2010年以降は、直接投資と為替介入によって、経常黒字によって新たに生み出される円ショートポジションはほぼ完全に吸収されたため、外為市場で円高圧力が解消されたとみることができる。これが、構造的円安の第1の要因である。
高まりを見せる日本の外交的重要度
第2の要因は、2010年代以降の世界の東西分断である。1989年のベルリンの壁崩壊とそれに続くソビエト連邦の解体によって、米国にとって日本の安全保障上の重要度は大きく低下した。1993年の親中クリントン政権の誕生以来、G2(米中二極体制)論、ステークホルダー論、互恵関係、戦略的パートナー等、米中両国は大きく接近した一方、ジャパン・バッシングと呼ばれたように、日米関係は継続的な悪化を続けた。
ドル円相場に目を移すと、1990年4月のバブル経済下に160円台まで上昇したドル円相場は、米国による対日通商圧力の強まりによって、1995年には80円割れまで、2011年には70円割れまで下落した。
ところが、2010年代に入ると様相が一変する。2014年にはロシアがクリミアを併合、2015年には中国による南沙諸島の人工島建設が明らかとなり、2017年以降、中国は「一帯一路」を推進。また、その頃、購買力平価換算で米中のGDP(国内総生産)が逆転すると、同年誕生した米トランプ政権は、2018年に米中貿易戦争を本格化した。そして、2019年の新型コロナウイルス禍を経て、2022年にロシアがウクライナに侵攻すると、東西の分裂は決定的となった。
この結果、米国にとって日本の外交上の重要度は著しく増大すると同時に、わが国の地政学的なリスクが高まり、ドル円相場は、2024年4月に、冷戦終結によって日米関係が悪化する以前の1990年4月以来34年ぶりの160円までの反発を遂げたのである。
米為替政策のシフトを市場参加者が確信
第3の構造的要因は、米国の為替政策の変遷だ。ドル円相場の歴史は、米国の為替政策の歴史といっても過言ではない。
1971年に、ニクソン大統領が、米国経常収支の赤字化によって金とドルの兌換停止を発表すると、ドル円相場は著しい下落基調に入り、ベトナム戦争の敗北や二度の石油危機を背景に1978年8月には178円台まで下落、ドル危機が勃発する。同年、カーター大統領はドル防衛策を発表、1981年に就任したレーガン大統領は、レーガノミクスの柱の1つとしてドル高政策を採用する。結果、1985年2月に260円台まで上昇したドル円相場は、1985年のG5(米、英、仏、独、日)によるプラザ合意で第2次レーガン政権がドル安政策に転換を図ると、再び著しい下落基調をたどり、1995年4月には80円を割った。しかし、ワシントンで開催されたG7(主要7カ国首脳会議)会合で、米クリントン政権は強いドル政策に転換した。
また2000年に実施されたユーロ防衛協調介入を最後に、日本を除く主要国は、為替市場への不介入政策を採用。現在までこの強いドル政策と為替市場への不介入政策は継続されている。この間、円高進行時においてわが国財務省が実施した円売りドル買い介入に対して、為替市場への不介入政策を採用する米国財務省やECB(欧州中央銀行)などから不快感が表明され、為替介入の効果が半減したことがしばしば見受けられた。2024年4月25日にあったイエレン米財務長官による日本の為替介入に関する発言も、基本的には1995年から継続されているこれらの政策を踏襲したものである。
すなわち、「強い米国経済」による強いドル政策が米国の最大の関心事であること、そして1995年以降継続されている為替市場への不介入政策によって、それ以前に米国政府よって実施されていたヒステリックとも言える通商的なドル安誘導がもはや過去のものとなったことを市場参加者が確信したことが、2010年以降の構造的円安の第3の要因である。
円安の流れは力強いが、115円まで急落するシナリオも
これらの構造的な円安要因は、筆者が本誌で繰り返し議論してきたものだ。加えて、日本と欧米主要国との間の4%から5%におよぶ金利差が続く限り、わが国財務省による大量の円買い介入をもってしても、円安の流れを変えるのは容易ではないだろう。
2024年4月26日に発表された4月分東京都区部のコア消費者物価前年比上昇率は、3月の2.3%から1.4%へ急落した。特殊要因が含まれているものの、日銀の追加利上げに対してはネガティブなサインである。日銀が2024年2月に市場に供給していたベースマネーの残高は、662兆円と伝統的な金融政策運営が行われていた1999年2月の57兆円の10倍以上におよんでいる。筆者は、この大量のベースマネーの存在が財務省による円買い介入の長期的な効果を棄損すると考えている。また、米国のイエレン財務長官の日本の円買い介入に対するスタンスは決してフレンドリーとは言えない。
それでは、円安への視界は曇りなしかというと、筆者のレーダーには少なくとも2つのリスクが映し出されている。これが、筆者が、かねてより、ドル円相場が115円まで急落するリスクシナリオを提唱してきた理由である。
過去に起きた「質への逃避」によるドル円急落
第1のリスクは、「質への逃避」である。現在、世界中の投資家は、リスク資産の保有を最大限まで増加させた状態にある。日銀と同様に、Fed(米連邦準備制度)、ECB、イングランド銀行(英国中央銀行)は、大量のベースマネーを市場へ供給し続けている。
2024年2月における日、米、英、ユーロ圏のベースマネー総額は17兆ドルと、1999年2月の1.5兆ドルの10倍以上におよぶ。この過剰流動性が、ゴルディロックス(適温)相場の延命に一役買っていると筆者は考えている。
投資家が過剰にリスクを採った状況は外国為替市場でも同様だ。円市場では、そもそも累積の経常黒字額から為替介入と直接投資を差し引いた金額の円ショートポジションがキャリートレードとして投資家に保有されている。加えて、投機筋が5%におよぶ金利差に着目した投機的なキャリートレードを積み上げている。
円キャリートレード全体の金額の推計は不可能だ。しかし、市場参加者は、いわゆるシカゴ国際金融取引所(IMM)の投機筋ポジションを円キャリートレードのメルクマール(指標)として参照している。4月23日の同ポジションは、2.3兆円の円ショートと、2007年6月以来の高水準まで積みあがっている上、52週移動平均値の2倍近くに達する。ここで注目すべきは、過去に、同ポジションが52週移動平均値の約2倍に達した1998年と2006年には、いずれも質への逃避によってドル円相場が急落していることだ。
歴史は繰り返すのか。トランプ2.0も注視
1995年4月の米国によるドル高政策への転換と日本の金融不安などによって、ドル円相場はキャリートレードの積み増しを主因に、同月の81円台から1998年8月には146円台まで上昇した。わが国財務省による大量の円買い介入や日米協調介入があっても円安の流れを変えることはできなかった。しかし、同月に勃発したロシア危機によって、金融市場では空前絶後の質への逃避が起こり、ドル円相場は1999年1月に108円台まで急落した。
2005年には、Fed の金融引き締め局面入りによる日米金利差拡大等に注目した円キャリートレードの積み増しが始まり、ドル円相場は、同年1月の102円台から2007年7月には122円台まで上昇した。しかし、同年9月に顕在化した世界金融不安によって、質への逃避が誘発され、ドル円相場は2008年3月に98円台まで急落した。
現在のキャリートレード積み増し局面の始点を2021年1月とすれば、間もなく1995年の積み増し局面が1998年8月にロシア危機によって終わりを迎えた時期を迎える。東西分断に、中東の政情不安、中国の金融不安と欧米の資産バブルの行方等、リスク要因は枚挙をいとわない。果たして、歴史は繰り返すのであろうか(図表3)。
トランプ前大統領は、4月23日に、「ドル高は製造業にとって大惨事」と述べた。トランプ2.0実現なら、米国が1995年以来継続している強いドル政策と為替市場への不介入政策が撤回される可能性は決してゼロではない。これが第2のリスクシナリオだ。