三菱UFJ信託銀行 資産運用情報 信頼性あるトランジション・ファイナンス: 実践的枠組みの探求

中井 勝之
三菱UFJ信託銀行
エグゼクティブリサーチャー
2024年4月の三菱UFJ信託銀行入社後、サステナブルインベストメント部エンゲージメントグループにおいて、国内の電力・ガス業界やアジアパシフィック地域の高排出企業とのサステナビリティ課題に関する対話を担当した。現在はエグゼクティブリサーチャーとして大学との共同研究や企業分析に携わっている。入社以前は、S&Pグローバル・レーティングの事業法人格付部のアナリストとして18年間勤務。S&Pのシンガポールオフィスにおいてアジア企業の分析に従事した経験も持つ。

鄭 綺
三菱UFJ信託銀行
サステナブルインベストメント部 調査役
2014年3月慶應義塾大学法学部政治学科卒業。 同年4月に豊田通商株式会社入社。再生可能エネルギー資産のリスクマネジメント等に従事。 2020年4月より有限責任あずさ監査法人にてパブリックセクターのアドバイザリー業務に従事。 2023年11月に三菱UFJ信託銀行入社、現職。 現在はサステナビリティに関する企画業務に携わり、産学連携プロジェクトや有価証券報告書におけるサステナビリティ情報開示等を担当。
2019年12月London School of Economics and Political ScienceにてDevelopment Management修士課程修了。 修士(Master of Science)。
Ⅰ.はじめに
気候変動への対応は喫緊の課題であり、地球温暖化対策の国際枠組みであるパリ協定(※1)では、世界の平均気温上昇を産業革命前と比べて2℃より十分低く保ち、1.5℃に抑えるよう努力するという長期目標を掲げている。この国際的な目標と整合するかたちで、我が国も2050年カーボンニュートラル目標(※2)を独自に掲げた。この目標を達成するためには経済・社会の構造転換が必要であるため、昨今、温室効果ガス(Green House Gas、以下GHG)を大量に排出する高排出セクター(鉄鋼、化学、エネルギー等)の脱炭素移行を金融面から支援するトランジション・ファイナンスの重要性が増している。従来のグリーンファイナンスが再生可能エネルギーのような低炭素プロジェクトへの投資に焦点を当ててきたのに対し、トランジション・ファイナンスはこれらの高排出セクターが長期的な脱炭素戦略を実現するための移行投資を資金面で後押しする枠組みである。特に、エネルギー消費量の大きい製造業の比率が高い我が国(※3)において、トランジション・ファイナンスは、今後10年間で官民合わせて150兆円超とも試算される大規模なグリーントランスフォーメーション投資を実行するための最重要ツールとなるといわれている(※4)。
しかし、この金融手法は適切に設計・評価されなければ、2050年のネットゼロ実現に向けた実態を伴わないグリーンウォッシュ(※5)とみなされる懸念を伴う。この信頼性に対する懸念は資金提供者の慎重姿勢を招き、我が国の産業の脱炭素に必要な資金の円滑な調達を阻害するリスクを内包していると考える。
そこで、本稿ではこのトランジション・ファイナンスが抱える信頼性の壁を乗り越え、実効性ある金融メカニズムとして機能させるための方策やその課題を、グローバルな動向を踏まえつつ、制度、評価手法、企業事例の3つの側面から総合的に検討する。
まず第Ⅱ章でトランジション・ファイナンスの基本概念を整理した上で、第Ⅲ章で国際的な制度・政策や開示基準の動向を、第Ⅳ章で具体的な評価手法に焦点を当てる。そして、第Ⅴ章で日本・アジア企業を中心とした具体的な企業事例を分析し、移行計画の実践的な策定および市場からの評価の現状を検証する。第Ⅵ章では結論として、トランジション・ファイナンスの信頼性を高めるための提言をする。
※1 外務省「2020年以降の枠組み:パリ協定」パリ協定とは国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)で採択され、2016年に発効した2020年以降の温室効果ガス排出削減等のための国際枠組みのこと。世界共通の長期目標として産業革命前と比べて世界の平均気温上昇を2℃より十分低く保ち、1.5℃に抑えるよう努力すること等が定められた。
※2 Ibid. パリ協定の目標達成に向け、2020年10月26日、菅総理大臣(当時)が所信表明演説において、「我が国は、2050年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、すなわち2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指す」ことを宣言。
※3 内閣府「令和3年度 年次経済財政報告」、内閣府「地域課題分析レポート(2025年8月)」
※4 金融庁・経済産業省・環境省「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針(2025年版)」
※5 UL LLC「Sins of Greenwashing」企業の環境活動や製品・サービスの環境的利点に関し消費者を誤解させる行為のこと
Ⅱ.トランジション・ファイナンスの基本理解
1. トランジション・ファイナンスとグリーンファイナンスとの構造的差異
トランジション・ファイナンスとは、「気候変動への対策を検討している企業が、脱炭素社会の実現に向けて、長期的な戦略に則った温室効果ガス削減の取り組みを行っている場合にその取り組みを支援することを目的とした金融手法(※6)」の総称である。
Ⅰ章でも述べたように、低炭素な活動や技術(再生可能エネルギー、省エネルギー設備等)への資金供与に焦点を当てるグリーンファイナンスとは異なる枠組みである。我が国の国内指針策定にあたり参照された、「クライメート・トランジション・ファイナンス・ハンドブック」の発行元であるICMA(国際資本市場協会)は、2025年11月に改定した同ハンドブックで、トランジション・ファイナンスが主眼を置くべきは“credibility of anissuer’s Greenhouse Gas (GHG) emissions reduction strategy, commitments, andpractices”(発行体のGHG 排出削減戦略、コミットメント、実務の信頼性)だとした。これは、単なる個別プロジェクトへの資金供与に留まらず、“entity-level practices, actions anddisclosures” (発行体レベルの慣行、行動、開示)の明確化を通じた包括的評価を伴う点が特徴であり、特に “hard-to-abate and fossil fuel sectors” (削減困難セクターや化石燃料セクター)における長期的な移行の信頼性を担保することを意図している。すなわちこの新たな金融手法は高排出セクターの移行途上を対象にしているという性質上、実態を伴わない環境配慮の主張(グリーンウォッシュ)のリスクが内在している(※7)。この懸念を払拭し、資金が脱炭素移行に資することを担保するメカニズムが“climate transition strategy and targets to be ‘science-based’” (科学的根拠に基づくクライメート・トランジション戦略と目標)の策定・開示である。そのため、資金調達の前提として、パリ協定の目標と整合する“long-term, science-based target”( 長期的で科学的な目標) および、その軌道上の“relevant and credible interim science-based targets in the short and medium-term” (短・中期の中間目標) を掲げ、具体的な道筋を示すことが求められる。これにより、投資家は“implementation transparency” (実施の透明性)を評価し、“qualitative and quantitative expectations of the climate-related outcomes and impacts” (気候関連のアウトカムやインパクトに関する定性的・定量的な期待値)を確認することで、資金提供の是非を判断することが可能になる(※8)。
※6 金融庁・経済産業省・環境省 「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針(2025 年版)」
※7 Carney, M. (2021). Building a private financial system for net zero. DLA Piper.
※8 ICMA 「Climate Transition Finance Handbook」日本の金融庁・経済産業省・環境省が策定した「クライメート・トランジション・ファイナンスに 関する基本指針」はICMA のハンドブックとの整合性に配慮して策定されたものである。策定時にICMA は本基本指針に対してコメントを提供し、整合性も確認されている。
2. トランジション・ファイナンスの主要な金融商品形態
トランジション・ファイナンスは企業の資金調達ニーズに基づき、主に資金使途特定型とサステナビリティ・リンク型という2つの手法を通じて提供される。以下2つの金融商品形態は国際的な基準が定まり、市場で主流となっているものであるが、ICMA のガイドラインではこれら2つの主要なアプローチを組み合わせたハイブリッドな商品形態の可能性も排除していない。
| 資金使途特定型債券/ローン | サステナビリティ・リンク債券/ローン | |
|---|---|---|
| 代表例 | トランジション・ボンド/ローン | トランジション・リンク・ボンド/ローン/td> |
| 資金使途 | 特定の低炭素移行プロジェクトに限定 発行体の移行計画と整合するGHG排出削減策への投資に充当 (例:石炭火力からガス火力へ転換投資) |
限定なし(一般事業資金) 一般的なコーポレート目的に使用可能 |
| 評価の軸 | 資金使途の環境適格性と、発行体の移行戦略への貢献 | 発行体全体で設定されたKPI/SPT(サステナビリティ パフォーマンス目標)の野心度、科学的根拠、および達成実績 |
| 参照する原則 |
・ICMA 「クライメート・トランジション・ボンド原則」 「グリーンボンド原則」 ・環境省 「グリーンボンドガイドライン」 「グリーンローンガイドライン」 ・ ローンマーケット協会(LMA) 「グリーンローン原則」 |
・ICMA 「サステナビリティ・リンク・ボンド原則」 ・環境省 「サステナビリティ・リンク・ボンドガイドライン」 「サステナビリティ・リンク・ローンガイドライン」 ・ローンマーケット協会(LMA) 「サステナビリティ・リンク・ローン原則」 |
| 金利連動 | 原則なし (通常、調達後の条件変動はない) |
あり (削減目標等のKPI達成度に応じ金利変動 例:目標未達時は、金利上昇) |
| 特徴 |
投資家は、資金の環境改善効果の追跡が容易 特定の移行技術・設備投資の支援に適する |
柔軟性が高く、大規模資金調達や使途多岐の場合に適する 企業全体のサステナビリティパフォーマンス向上を強く促す |
3. 信頼性確保のために:移行計画(トランジション・プラン)の構成要素
発行体が投資家に提示する移行計画(トランジション・プラン)こそが、トランジション・ファイナンスの信頼性を担保する基盤となる。ICMAの「クライメート・トランジション・ファイナンス・ハンドブック(2025年11月改訂)」では、信頼性の高い移行計画に不可欠な4つの主要構成要素を提示している(※9)。
(a) 移行戦略とガバナンス(Issuer’s climate transition strategy and governance)
⚫ 経営戦略上の位置づけ:脱炭素移行が短期的なプロジェクトではなく、発行体のビジネスモデル全体を、パリ協定の目標達成に向けて適応させる長期的な戦略として位置づけられている必要がある。
⚫ ガバナンス体制による監督:ガバナンス体制が構築され、経営層や取締役会レベルでの説明責任が明確であることを求めている。
(b) ビジネスモデル上の環境マテリアリティ(Business model environmental materiality)
⚫ 事業モデルへの影響分析:移行戦略は発行体の事業モデルにおいて環境面で最重要な部分、すなわち中核的な事業活動に関連するものである必要がある。また、重要性に関する現在の判断に影響を与える可能性のある将来のシナリオも考慮する必要がある。
(c) 科学的根拠に基づく目標(Climate transition strategy and targets to be ‘science-based’)
⚫ パリ協定整合性:GHG 排出量削減ターゲットが、IEA のNet Zero Scenario 等の国際的な基準や、SBTi(Science Based Targets initiative)の認定を得た科学的根拠に基づくものであり、パリ協定の目標と整合していること。全ての排出量スコープを網羅する目標であるべきであり、スコープ1, 2に加えて、 スコープ3も対象に含めることが求められる。
(d) 実施の透明性(Implementation transparency)
⚫ 資金使途と実行計画:移行戦略に沿った投資計画、特に設備投資および運営費計画を可能な範囲で示すことを推奨。
⚫ 進捗の定期的開示:発行体の排出量削減に向けた主な手段や、期待される気候関連のアウトカムやインパクトの定性・定量的開示が求められる。
以上の要素を網羅した移行計画を策定することで発行体は自社の移行へのコミットメントと具体策を示し、市場からの信頼を得ることができる。こうした移行計画は、企業のサステナビリティ報告や有価証券報告書における気候関連情報として開示され、これにより投資家は企業の将来的なリスクと機会を評価し、信頼に足るトランジションの取り組みに対して的確な資金供給が可能となる。
※9 ICMA 「Climate Transition Finance Handbook」
Ⅲ. 制度・政策・開示基準の動向
Ⅲ章ではトランジション・ファイナンスが抱えるグリーンウォッシュの懸念を払拭し、その信頼性を担保するために国際社会が構築してきた政策的枠組みと開示基準の動向を論じる。直近の国際情勢を俯瞰すると、地政学的変化がありつつも主要国・地域においてはネットゼロ目標と産業競争力の強化を両立させるための具体的な施策が次々と公表されている。日本ではGX推進に向けた長期の支援体制が確立され、エネルギー・トランジションへの資金投入を明確に打ち出したガイダンスの公表・改訂が進められている。また、欧州連合(EU)ではクリーン産業ディール等を通じた産業支援が開始される一方で、規制の厳格な枠組みを企業の報告負担軽減や経済的実効性の観点から簡素化へとシフトさせている動向が顕著である。本章では、特に国際社会における規制を牽引してきたEUのその動向に着目し、その教訓を抽出する。

※10 脱炭素成長型経済構造移行推進機構 「GX Future Report 2025」
1. 政策的枠組みの進化
トランジション・ファイナンスを巡るグリーンウォッシュの懸念は、定義の不明確さが主な要因となっている。この課題を解消し市場の混乱を防ぐべく、各国政府が政策的枠組みを模索するなか、その先駆的かつ代表的な事例として挙げられるのがEUである。EUの規制枠組みは定義や開示のルールに留まらず、図表3が示すように多層的な要素が相互に連動することで、情報開示から指標の提供、そして最終的な金融商品販売に至るまで、市場インフラ全体の信頼性を担保しようとしている(※11)。
| 規制 | 役割 | 説明 |
|---|---|---|
| EUタクソノミー | 活動の定義 | ・環境的に持続可能な経済活動を分類するための基準 ・投資や企業活動が気候変動の緩和や適応などの環境目標に、どう貢献するかを明確化するもの |
| 企業サステナビリティ報告指令 (CSRD) |
企業開示 | ・企業のサステナビリティ情報開示に関する法令 ・主に事業会社を適用対象とするもの |
| サステナブル・ファイナンス 開示規則(SFDR) |
金融商品開示 | ・主に金融市場に参加する金融機関を適用対象とした金融機関自身と金融商品に関する開示の法令。金融商品にサステナビリティ特性を分類・表示し、市場の透明性を高めるもの |
| EUベンチマーク規則 (BMR) |
指標の提供 | ・ベンチマーク提供者にガバナンス整備やベンチマーク算出方法についての情報開示、監査等を求めるもの ・EUクライメート・トランジション・ベンチマーク(EU CTB)も定義付け |
| 第2次金融商品市場指令 (MiFIDⅡ) |
販売と保護 | ・MiFIDでは、顧客提案前に適合性評価を義務付け ・MiFIDⅡでは、顧客のサステナビリティ選好の確認の組込みを義務化 |
当初、EUは厳格なタクソノミーを導入し、CSRDやSFDRを連動させることでトランジションを含む環境的に持続可能な経済活動の定義を明確にし、信頼性担保の礎とした。しかし、企業の報告負担の大きさや国際競争力の維持への懸念を背景に、CSRDやEUタクソノミーの報告義務について対象の縮小や簡素化へと舵が切られた。その最新の動向として、欧州議会は2025年11月にCSRDと企業持続可能性デューデリジェンス指令(CSDDD)を簡素化する法案の立場(修正案)を採択した(※12)。さらに、欧州委員会は2025年11月にSFDRの改定案を発表し、この簡素化へのシフトを具体的に示した。この改定は、金融市場参加者の負担を大幅に軽減することを目指すものであり、特にエンティティレベルのPAI(Principal Adverse Impact:主要な悪影響)開示要件の削除や、プロダクトレベルの情報開示の大幅な削減が含まれる。さらに重要な点として、SFDR は従来の曖昧な第8条/第9条分類を廃止し、図表4の3つの明確な商品分類を提案した(※13)。
| Sustainable category |
・改正後の9条 ・サステナビリティの目標(気候、環境、社会目標など)に貢献するもの 高いサステナビリティ基準を満たしている企業やプロジェクトへ投資するもの |
|---|---|
| Transition category | ・改正後の7条 ・まだサステナブルではないものの、信頼できる移行途上にある企業や プロジェクトに投資するもの または、気候、環境、社会分野等の改善への貢献に投資するもの |
| ESG basics category | ・改正後の8条 ・様々なESG投資アプローチを統合し、上記2基準を満たさないもの |
※11 日本貿易振興機構(ジェトロ) 「EU サステナブル・ファイナンス最新動向-タクソノミー規則を中心に-」、Anderson Mori & Tomotsune 「EU LAW NEWSLETTER Issue 12」、あずさ監査法人 「欧州CSRD/ESRSの概要と3つの対応オプション」、大和総研 「EU の気候ベンチマークが始動」、Schroders 「サステナビリティ選好とその評価方法」
※12 日本貿易振興機構(ジェトロ) 「ビジネス短信 欧州議会、CSDDD・CSRD 簡素化法案の立場採択、対象企業の大幅削減へ」
※13 大和証券 家入 直希「週間ESG ニュースメール(2025/11/21)」、European Commission「Commission simplifies
transparency rules for sustainable financial products」、European Commission 「Questions and answers on
the Sustainable Finance Disclosure Regulation」、Responsible Investor 「European Commission drops
alternatives opt-out in final SFDR review」
MiFIDⅡに基づく投資家への助言の義務化(サステナビリティ選好の把握)とあわせて(※14)、SFDR の改定でEUがトランジション・ファイナンスを独立したカテゴリーとして政策的に位置づけたことは、トランジション投資への資金流入を法的に促進する構造を明確にしたものとして評価できる。同時に、タクソノミー適合率については引き続き任意とされた上で、適合アセットへの投資が一定割合(例:15%以上)あれば、Sustainable またはTransition カテゴリーの基準を満たすとする措置が取られた。
これらの動向は、規制の厳格化には限界があり、経済的実効性とのバランスおよび実務的な簡素化が不可欠であることを示唆している。EUの厳格なアプローチが揺らぐ中で、多くの国はICMA が定めるClimate Transition Finance Handbook 等の原則に基づく自主的な信頼性確保を重視している。日本もまた、EUのような強制力のあるタクソノミーを採用せず、クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針(※15)を策定している。この指針は国際原則との整合性を図りつつ、産業ごとの実情に合わせたロードマップに基づく移行を支援することを目的としており、日本の産業競争力の維持を重視したアプローチとなっている。
2. 開示基準の統一
政策的枠組みがトランジションに関する定義や強制力を提供するのに対し、国際的な開示基準は発行体がそのトランジション戦略をどのように信頼性を以って市場に伝えるかという情報開示の標準化を担う。国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)の基準であるIFRSS2(気候関連開示基準)は、TCFD提言をベースに気候関連のリスクと機会に関する情報の開示をグローバルな標準として確立した(※16)。この基準は、気候関連情報に財務的な観点(財務上のマテリアリティ)を適用することを保証する。IFRS S2に基づく開示は、財務諸表と同時に、または一体的に開示されることを前提としており、これにより企業のサステナビリティ開示を単なる環境に関する取り組みの報告から投資家が投資判断を行う上で不可欠な情報へと引き上げる役割を果たす。
IFRS S2が移行計画の核となる開示要求を定める一方で、その具体的な内容と実効性を高めるために英国の移行計画タスクフォース(TPT:Transition Plan Taskforce)が策定した開示フレームワークが実践的なガイドラインとして機能する(※17)。TPTのフレームワークはISSB基準と整合するように設計されており、移行計画を単なる目標提示に留まらず、ガバナンス、戦略、実行、および指標と目標の各側面で統合された事業計画として位置づけている。特に、TPTのフレームワークは目標達成に向けた財務的な実現可能性を重視し、必要な資金投入量(CapEx)や経営陣の報酬との連動によるガバナンスの確保等を詳細に求める。これにより計画の実効性と説明責任を高めることを目指す。このTPTのフレームワークはEUが規制的な強制力を弱めている状況で、市場からの信頼を獲得するために企業が自主的に取り組むべき最高水準の実務指針として重要性を増している。
※14 大和総研 「EU、「サステナビリティ選好」の反映義務化」
※15 金融庁・経済産業省・環境省 「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針(2025年版)」
※16 小林 永明 「月刊誌・会計情報2023年10月号 IFRS サステナビリティ開示基準(IFRS S1 号及びIFRS S1号)の概要」
※17 IFRS「Transition Plan Taskforce resources」、梅村 拓実「気候移行計画とTPT 開示フレームワーク(1)気候移行計画の概要」、柏木 爽良、山下 泰之 「気候移行計画とTPT開示フレームワーク(2)TPT 開示フレームワークの概要」、長谷川 林太郎、山下 泰之 「気候移行計画とTPT開示フレームワーク(3)TPT開示フレームワークと各種開示基準の対応」
3. 日本の政策・基準設定動向
日本のトランジション・ファイナンスの枠組みは、上記のようなグローバルな動向、特にEUの厳格な枠組みとIFRSによる開示基準の進化を踏まえつつ、日本の産業構造と国内企業の特性に焦点を当てて構築されている。Ⅲ章1節で述べた通り、日本はEUのような強制力のあるタクソノミーを採用せず、「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針」を策定している。この指針は国際原則と整合性を図りつつ、発行体が策定するトランジション戦略の信頼性を評価することを根幹としている。この評価を実効的なものにするため、我が国では高排出セクターの脱炭素化の方向性を示す分野別技術ロードマップが策定された。このロードマップは企業がパリ協定と整合的な戦略を策定する際の参照軸となり、金融機関等がその戦略の適格性や信頼性を判断する際の一助となる役割を担っている。このアプローチは日本のGHG 排出量の大半を占める高排出セクターにおいて(※18)、トップダウン規制よりもボトムアップでのイノベーションを促し、産業競争力の維持を両立させることを企図している。
開示基準についても国際的な整合性を図るため、財務会計基準機構(FASF)内に設立されたサステナビリティ基準委員会(SSBJ)がIFRS S1・S2をベースとした開発を進めてきた。SSBJはISSB基準に相当する基準として、「一般基準」と「気候関連開示基準」を含むSSBJ基準を2025年月に公表している(※19)。SSBJ基準の「気候関連開示基準」はIFRS S2と内容がほぼ共通しているため、TPTのフレームワークはSSBJ基準に準拠した移行計画の開示内容を検討する上でも、利用可能かつ実践的なガイダンスである。なお、SSBJの基準設定において最大の論点の一つは、非上場企業や中小企業を含むサプライチェーン全体で、いかに実効性のある形で移行計画の開示を浸透させるかという点である。この実効性を確保する上では単に開示項目を埋めるだけでなく、TPTが示すような資金計画やガバナンスと連動した国際的なベストプラクティスを日本の技術革新や中長期的な事業戦略の中に具体的に落とし込むことが求められる。こうした実務的な戦略の構築こそが日本企業にとってトランジション・ファイナンスによる資金調達を成功させるための不可欠な要素となる。
グローバルな枠組みは、厳格な定義(例:EU タクソノミー)と標準化された開示(例:IFRS S2)の2つの側面からトランジション・ファイナンスの信頼性を支えてきた。しかし、EUの簡素化が示すように、規制の厳格化には限界がある。日本は政策面では産業ごとのロードマップを重視し、開示面ではSSBJ基準を適用することで、信頼性ある移行計画の開示を市場に促している。この開示された情報こそが次章で論じる評価手法の基礎情報となる。
※18 金融庁・経済産業省・環境省 「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針(2025年版)」同基本指針
によると、鉄鋼分野、化学分野、電力分野、ガス分野、石油分野、紙・パルプ分野、セメント分野、自動車分野と、国土交通省策定の海運分野、航空分野を合わせた10の技術ロードマップを策定。これらのセクターで日本の温室効果ガス排出量の8割強をカバー。(2021年度排出量ベース)
※19 SSBJ「サステナビリティ開示基準」、PwC Japan 有限責任監査法人「ISSB/SSBJ(IFRS/日本版サステナビリティ開示基準)対応支援」
Ⅳ.評価手法と信頼性確保のための要素
第Ⅲ章では、トランジション・ファイナンスの信頼性を担保するための政策的枠組みと開示基準が国際社会でどのように進化し、日本がそれを取り込んでいるかを論じた。本章では、その枠組みの下で企業が開示した移行計画の信頼性と実効性を市場が評価するための具体的な検証手法(外部評価、科学的ターゲット)に焦点を当てる。さらに、これらの手法が抱える地域特性への対応という限界を考察することで、次章で深掘りする日本・アジア企業の実践的な信頼性構築のアプローチへの論理的な橋渡しを行う。
1. 外部評価・認証の役割
トランジション・ファイナンスは脱炭素への移行途上にある企業の戦略に資金を供給するため、その資金使途が実態を伴わないグリーンウォッシュに陥る懸念を常に内包している。このため、発行体の主張を第三者が客観的に検証する仕組みが不可欠である。従来のグリーンボンド市場同様、トランジション・ファイナンスについてもセカンドパーティ・オピニオン(SPO)や認証といった外部レビューが広く活用されている(※20)。これらの外部レビュー提供者(External Review Providers)は発行体が策定したトランジション・ファイナンス・フレームワーク(戦略、マテリアリティ、資金使途等の包括的な規定)に加え、実際の資金調達(個別案件)についても、国際原則(ICMA ハンドブック等)や各国指針(日本の基本指針等)との整合性を評価する役割を担う。
我が国では、例えば株式会社日本格付研究所(JCR)が独自の評価制度「クライメート・トランジション・ファイナンス評価」(※21)を設けている。評価評価は5段階で、上位のものから順に、Green 1(T)、Green 2(T)、Green 3(T)、Green 4(T)、Green 5(T)の評価記号を用いて表示される。このような定量的な評価スコアは、投資家にとって発行体を比較する際の重要な指標となり、市場全体の信頼性向上に寄与している。また、Climate BondsInitiative(CBI) による認証制度も2023年に基準が拡充され、従来のグリーン資産のみならず、適切な移行計画を有する高排出セクターの資産についても、一定の条件下で認証が与えられるようになっている(※22)。なお、評価者自体の独立性・専門性も重要であり、ICMAは外部レビュー提供者に関するガイドラインを定め、その質の担保に努めている(※23)。
※20 DNV ビジネス・アシュアランス・ジャパン株式会社 「附属書 – セカンド・パーティ・オピニオン」日本郵船株式会社トランジションボンド(第3回)の付属書のように、国際的な第三者評価機関によるSPOを活用することは一般的である。
※21 株式会社日本格付研究所 「クライメート・トランジション・ファイナンス評価」JCRが付与し提供する JCR クライメート・トランジション・ファイナンス評価は、評価対象であるトランジション・ファイナンスにより調達される資金が、JCRの定義するグリーン/トランジション・プロジェクトに充当される程度、ならびに当該トランジション・ファイナンスの資金使途等にかかる管理、運営および透明性確保の取り組みの程度に関するJCR の現時点での総合的な意見の表明のこと。その他にも、「クライメート・トランジション・ファイナンス・フレームワーク評価」もある。これは、クライメート・トランジション・ファイナンス・フレームワークで定められた方針を評価対象として、JCRの定義するグリーン/トランジション・プロジェクトに充当される程度ならびに資金使途等にかかる管理、運営及び透明性確保の取り組みの程度に関する、JCRの現時点での総合的な意見の表明のこと。
※22 Responsible investor 「Climate Bonds Initiative launched certification scheme for corporate transitions, SLBs」
※23 ICMA 「Guidelines for Green, Social, Sustainability and Sustainability-Linked Bonds External Reviews」
2. 科学的根拠に基づく目標の検証
Ⅳ章1節で論じた外部評価・認証は、発行体の移行戦略や資金使途の実行可能性や国際原則との整合性を検証するものである。これに対し、発行体の気候目標がパリ協定と整合しているかという野心度の側面を検証する上で重要な役割を果たすのが、Science BasedTargets イニシアティブ (SBTi) である。SBTiは企業が設定した温室効果ガス削減目標について、パリ協定が求める水準と整合しているか専門知見に基づき検証・認定する国際的枠組である(※24)。特筆すべきは日本企業の積極姿勢である。2025年11月時点でSBT認定(1.5度基準)を取得した企業数が世界最多の1,904社(世界全体8,866社)となり、これは日本企業がグローバル基準に基づく目標設定の高いコミットメントを有していることを示唆する(※25)。トランジション・ファイナンス評価においても、企業の掲げる排出削減目標がSBT認定済みか否かは重要なチェックポイントとなる。SBT認定済みであれば、少なくとも目標水準の妥当性は担保されるため、発行体は市場からの信頼を獲得しやすくなる。しかし、SBT認定は目標設定時の評価であり、その後の実行状況や戦略全体の妥当性評価までは含まない。そのため、SBTによる科学的根拠に基づいた目標の検証と外部評価による実行可能性の検証は、信頼性を多角的に担保するために補完的に機能するといえる。
※24 WWF 「Science Based Targets イニシアティブ(SBTi)とは」
※25 Ibid.
3. 評価手法の限界
前述した外部評価やSBT 認定といった検証手法はトランジション・ファイナンスの信頼性を高める上で不可欠であると考えられる。しかし、これらの手法もまた限界を内包している。特に、グローバルな原則や目標は地域や産業ごとの経済・社会的な多様性を完全にカバーすることは難しいという課題がある。例えば、石炭依存度が大きく今後も高い経済成長が予想されるASEAN諸国において、EUの厳格なタクソノミー基準をそのまま適用することは現実的ではない。そのため、アジア・トランジション・ファイナンス指針やASEANTaxonomy for Sustainable Finance Version 4(※26)のように、段階的な移行を許容する柔軟なアプローチが必要となる。一方、日本の政策的アプローチも独自の地域特性を踏まえている。日本のGHG排出量の大部分を占める高排出セクターにおいて、産業競争力の維持と技術ロードマップに基づくボトムアップな移行が重視される。これは単なる目標の検証に留まらず、各企業の移行パスウェイに焦点を当てた評価のローカライズが不可欠であることを示している。
このようにトランジション・ファイナンスの信頼性確保には、グローバルな原則や目標の遵守に加え、各地域の環境政策や経済的文脈に応じた評価のローカライズが不可欠となる。この地域ごとの独自の要件と課題を理解することは、外部評価手法の限界を知る上で重要である。そこで第V章では、この地域的な多様性に着目し、日本およびアジア企業の具体的な移行計画について、ネットゼロ実現に向けた強みと課題、また各国政策との連動性を分析することで、トランジション・ファイナンスに対する実務的な信頼性構築のアプローチを深掘りする。
※26 Asia Transition Finance Study Group 「Asia Transition Finance Guidelines」、ASEAN TAXONOMY BOARD「ASEAN TAXONOMY FOR SUSTAINABLE FINANCE VERSION 4」
Ⅴ.日本・アジア企業事例と移行計画の実践
第Ⅴ章では、第Ⅲ章で論じた制度動向や第Ⅳ章の評価手法に加え、トランジション・ファイナンスの信頼性確保に向けた企業レベルの実践的な取り組みについて考察する。また、日本企業の分析における比較対象として、既に環境関連ファイナンスで豊富な実績を有するアジア企業の事例についても検討を行う。国内外の動向を俯瞰すると、既に多くの企業が2050年のネットゼロに向けた移行計画を公表している。各社は、計画の信頼性を担保するためにガバナンス体制の強化を図るとともに、事業計画や投資計画との連動性の確保に注力している。加えて、地域特性の反映が不可欠なトランジション・ファイナンスにおいては各社の移行計画が国の環境政策とどの程度整合しているかが極めて重要な着目点となる。同時に、基盤となる国の環境政策自体の信頼性や一貫性も、企業の移行計画に対する市場の評価を左右する要因となり得る。排出削減に向けた将来の技術動向や外部環境には依然として不確実性が高く、現時点で個別の計画の確実性を断定的に論じることには困難が伴う。しかし、各社の計画を相互に比較分析することでそれぞれの相対的な優位性を明らかにすることは可能である。
以下では、関西電力、JFE ホールディングス、韓国のPOSCO、タイのPTT各社の移行計画を (1)技術、(2)環境政策、(3)個別企業の戦略の3つの視点から比較分析した。
まず、技術的な視点からは、技術の成熟度や関連インフラ整備の点で、原子力発電や再生可能エネルギーをネットゼロ実現の主要なドライバーとする関西電力の実現蓋然性が高い。次に、環境政策の視点では、日本政府の姿勢が重要な役割を果たす。産業競争力に直結する電力部門の脱炭素化を国が強く後押しする方針は関西電力の移行計画にとって追い風となる。最後に、個別企業の戦略の視点では、脱炭素技術の導入に対する投資計画の具体性が非常に高い点で、JFEホールディングスの取り組みが先行的であると考える。一方、韓国POSCOは、国内の非化石電源の供給能力に制約を抱えつつも、成長事業の強化と高い財務健全性を背景とした戦略的な対応が強みとなっている。また、タイの国営石油公社PTTについては、再生可能エネルギー比率の向上やCCUS(二酸化炭素回収・有効利用・貯留)の導入等、タイ政府の環境政策と足並みを揃えた着実な進展が評価される。
| (1)技術 | (2)環境政策 | (3)個別企業の戦略 | |
|---|---|---|---|
| 関西電力 | 〇ネットゼロの主なドライバーである再エネや原子力発電は既に確立された技術 | ◎日本の産業競争力に影響する 電力の脱炭素化には政府支援が期待できる |
- |
| JFEホールディングス | - | 〇技術ロードマップに基づいた長期的な政策支援が期待可 | 〇政府ロードマップに沿う取組脱炭素投資が具体的で、事業計画との連動性も高い |
| POSCO (韓国) |
- | 〇脱炭素技術に対する韓国政府の支援が期待可 | 〇電池材料など成長事業の強化を進めている 財務余裕度が高い点も強み |
| PTTグループ(タイ) | - | - | 〇再エネやCCUSなどを通じ、同国のネットゼロ実現に重要な役割を果たす方針を明確にしている |
1. 関西電力

(1)ネットゼロへの移行戦略:関西電力は「ゼロカーボンロードマップ」を策定し、再生可能エネルギーの主力電源化、原子力の最大限の活用、ゼロカーボン火力の推進、および水素サプライチェーンの構築を柱とした取り組みを展開している。ガバナンス体制については、「サステナビリティ推進会議」を設置し、グループ全体の気候変動に係る方針や取り組みについての議論や実績の進捗確認を行う。また、脱炭素に特化した会議体として、「ゼロカーボン委員会」を設置。社長を委員長とし、ゼロカーボンに係る各部門の取り組み共有、及び進捗状況の確認を行っている。また、関西電力では「ゼロカーボンに向けた取り組み推進」を会社の重要課題(マテリアリティ)の1つとして掲げている。
(2)脱炭素に向けた投資:中期経営計画において、ゼロカーボンへの挑戦(EX:Energy Transformation)に対し、2021年度から2025年度までの5年間で総額1兆500億円を投資する計画を公表。うち、3,400億円は洋上風力を中心とした新規開発、既設水力発電のリフレッシュといった再生可能エネルギー事業に投資する計画であることも併せて公表されている。直近2023年度においては、原子力発電の安全・安定運転や、洋上風力や太陽光等の再生可能エネルギー電源の開発等に対し、2,150億円を投じる計画。
(3)取り組みの妥当性:「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針2025 年版」によれば、同社の排出削減目標は、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第6次評価報告書(AR6)が示すセクターごとの1.5℃目標に関する道筋と整合している。電化の推進や再生可能エネルギー、原子力、水素関連の具体的な施策は経済産業省「トランジション・ファイナンスに関する電力分野における技術ロードマップ」とも整合的とされている。
(4)環境関連ファイナンスの実績:同社は、国内市場で多くの環境関連ファイナンスの実績をもつ。2025年12月時点における債券発行残高はグリーンボンドが950億円、トランジション・ボンドが1,548億円である。
2. JFEホールディングス

(1)ネットゼロへの移行戦略:同社は「JFE グループ環境経営ビジョン2050」を策定し、2050 年までのカーボンニュートラル実現を掲げている。主力である鉄鋼事業では、2030年度に排出量30%以上の削減(2013年度比、スコープ1,2)を中間目標として設定した。またエンジニアリング事業においても、CO2削減貢献量の拡大(2030年度に2,000万トン以上)を掲げている。ガバナンス体制については、同社では「グループサステナビリティ会議」及び傘下の各種委員会において、グループ全体の気候変動に係る目標や方針の議論、実績の進捗確認を行う体制を構築している。同社は長期ビジョンにおいて、「カーボンニュートラルに向けた技術開発でのトップランナー」となることを目標として掲げている。
(2)脱炭素に向けた投資:同社は現在推進中の製鉄プロセスの転換技術の開発を2035年度末までに完了させる方針であり、そのためのGHG 削減に関する投資として約1兆円を見込んでいる。さらに、2050年ネットゼロに向けた新技術の順次実装を含めて、総額約4兆円の投資が必要と試算している。同社では2027年度までの3年間の投資計画の遂行に向けて、一定の資産売却も行う計画であり、長期的な投資を見据えた財務運営を着実に進めている。
(3)取り組みの妥当性:「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針2025年版」によれば、同社が掲げる鉄鋼製造プロセス転換のロードマップは、経済産業省「トランジション・ファイナンスに関する鉄鋼分野における技術ロードマップ」に整合的である。
(4)環境関連ファイナンスの実績:同社は国内市場において、多様な年限のトランジション・ボンドの発行実績を有する。2025年12月時点におけるトランジション・ボンドの発行残高は850億円に達する。
3. POSCO (韓国)

(1)ネットゼロへの移行戦略:POSCOは「2050 POSCO Net-zero carbon Vison」において、GHG排出量を2017-2019年の平均比で2030年までに10%、2040年までに50%削減する計画を公表している。主な施策として、水素還元製鉄技術の開発、電炉比率の拡大、再生可能エネルギーの導入、CCUS技術の開発等に注力する方針である。特に、独自開発の水素還元製鉄技術「HyREX」を2030年に商業運転させることを重視している。ガバナンス体制については、取締役会の下に「ESG委員会」を設置し、CEOが脱炭素戦略を直接監督する体制を構築した。また、役員報酬にESG指標を連動させる仕組みを導入している。
(2)脱炭素に向けた投資:POSCOの脱炭素計画の実現に向けては、2050年までに約40兆ウォン(約4兆円)の投資が必要と見積もられている。同社は鉄鋼事業の収益力強化と二次電池材料事業の拡大に加え、非戦略部門の売却(2025年に1.5兆ウォン(約1,500億円)規模を計画)を進めることで、脱炭素投資を支える財務基盤の強化を図る方針である。本格的な投資拡大は、水素還元製鉄技術「HyREX」の実装が始まる2030年度以降となる見通しであり、同社は実現に向けた公的支援の拡大についても政府への働きかけを継続している。
(3)取り組みの妥当性:現在のPOSCOの排出量削減目標は政府の目標(2035年に53-61%削減)と乖離があるものの、同社では新たな政府計画に則した計画の見直しを行っている。また、2030年の商業化を目指す同社の水素還元製鉄技術「HyREX」は、2024年1月に韓国政府の重点技術の認定を受けた。加えて、同社ではTCFDに沿った情報開示を進める等、戦略や取り組みの透明性の向上に努めている。
(4)環境関連ファイナンスの実績:POSCOは、国際市場におけるグリーンボンド発行実績を有する(2024年1月に5億ドル(約780億円)、2025年4月に7億ドル(約1,092億円))。
4. PTT グループ(タイ)

(1)ネットゼロへの移行戦略:PTT グループは2050年までのネットゼロ実現(スコープ1,2)に向けて、「Climate-Resilience Business, Carbon-Conscious Asset, Coalition, Co-Creation and collective efforts for all」という3つのCに取り組む方針を明らかにしている。中間目標として、2030年にGHG排出量を15%削減させる目標を掲げている(2020年比)。同社はこれまで、クリーンエネルギーへの投資拡大や、石炭関連資産の売却等事業ポートフォリオの見直しを行ってきた。加えて2025年9月には、子会社のPTTExploration and Productionを通じて、タイ初のCCS(二酸化炭素回収・貯留)プロジェクト(2028年開始予定)に対する投資を決定した(※27)。ガバナンス体制については、取締役会傘下の「ガバナンス・サステナビリティ委員会」がESG戦略を監督しており、役員報酬に脱炭素関連KPIを連動させる仕組みも導入している。
(2)脱炭素に向けた投資: 2028年までの5年間で約1兆バーツ規模(約5兆円)の戦略投資を計画しており、そのうち約2割を再生可能エネルギー、水素、EVインフラ等の事業に充当する方針である。同社は戦略投資判断の基準として、社内カーボンプライシング(トン当たり20 ドル)を活用している。また同社ではこうした投資資金を確保するため、グリーンボンドやトランジション・リンク・ローンに取り組み、資金調達手段の拡大を図っている。
(3)取り組みの妥当性:タイ政府は、2025年11月、従来2065 年としていたネットゼロ目標を2050年に前倒しすることを発表した。PTTは国営石油公社として、タイ政府の新たな排出目標の実現に貢献する姿勢を明確にしており、再生可能エネルギー比率の拡大、水素利用やCCUS 導入等、国の重点政策に沿った取り組みを着実に進めている。また、TCFDに沿ったシナリオ分析を通じてリスクと機会の評価を行う等、開示の透明性を高める取り組みも行っている。
(4)環境関連ファイナンスの実績:同社は、タイ国内市場でグリーンボンドを発行した実績を有する(2020年7月)。加えて、グループ会社のPTT Global Chemicalが、2023年12月にタイの国内銀行とサステナビリティ・リンク・ローンを組成している。
※27 PTTEP 「PTTEP moves forward with Thailand’s first CCS project at Arthit field to advance the national Net Zero goal」
Ⅵ.おわりに
本稿は、気候目標達成に不可欠なトランジション・ファイナンスの概念から、制度、評価手法、そして企業事例の3つの側面を通じて、その信頼性の壁を乗り越えるための実践的アプローチを考察した。本稿の考察から、トランジション・ファイナンスの信頼性を担保する仕組みは以下の三重の構造によって成立していることが明らかになった。
⚫ 政策・制度的枠組み(第Ⅲ章)
EU の厳格な規制が簡素化へとシフトした事実が示すように、規制の厳格化には限界があることを示唆する。これに対し、日本は基本指針に基づき国際原則(ICMA等)と整合性を図りつつ、国内の産業構造と技術ロードマップに即した柔軟なアプローチを採用することで信頼性の基盤を構築している。
⚫ 外部評価の枠組み(第Ⅳ章)
IFRS S2やTPTは移行計画を財務と事業戦略に統合されたものとして開示することを要求し、信頼性の基盤を築いた。さらに、SBTiによる目標の科学的検証と、JCRに代表される評価機関による実行可能性や国際原則整合性の検証が相補的に機能することで、市場は多角的な評価を可能としている。
⚫ 企業レベルの枠組み(第Ⅴ章)
企業レベルにおいては、移行計画を実行するためのガバナンス体制の構築や事業計画との連動性の強化が市場に対して移行計画の信頼性を証明するために不可欠である。加えて、国の環境政策との整合性も重要である。日本政府の環境政策の一貫性や信頼性の高さは、アジア企業と比べ日本企業の移行計画の信頼性を高める要因と考える。
一方で、産業セクター全体の脱炭素化には移行途上にある主体への巨額かつ持続的な資金供給が不可欠であるにも関わらず、トランジション・ファイナンスの市場規模は依然として小さい。世界的な注目度の高まりに反して、その調達規模は脱炭素化に必要な投資額に対して限定的であるといえる(※28)。この停滞の主要因は、発行体が主張する移行計画の実現性に対する不透明感と評価基準の客観性に対する投資家の疑念に帰結する。日本の脱炭素化を加速させるためには、海外投資家や個人投資家を含めた資金提供者のすそ野を広げる取り組みが急務と考える。以上の考察に基づき、トランジション・ファイナンス市場を拡大し、信頼性を高めるための3つの提言を行う。
1. 提言1:企業の移行計画の質の向上
信頼性確保において最も重要なことは、企業レベルの取り組みを通じて移行計画の質を高めることである。曖昧な目標設定では幅広い資金提供者の支持は得られないため、TPTをはじめとした移行計画策定ガイドラインの国内適用を促進し、その実効性を高めるべきである。具体的には、移行計画を排出削減の抽象的なビジョンに留めるのではなく、その実現に必要な設備投資や研究開発費を具体的に予算化して事業計画に明確に反映させる必要がある。また、測定可能で野心的なKPI を移行計画に組み込むとともに、それを経営陣の報酬体系に明確に紐づけることで、発行体としてのコミットメントと透明性を市場に明確に示すべきである。加えて、自社の移行計画を国のエネルギー政策と整合する内容に保つ努力を行うことは、移行計画の実現性を高め、市場からの信頼性確保にもつながると考える。
2. 提言2:外部評価手法における評価基準の精緻化と地域柔軟性の両立
評価手法については、グリーンウォッシュを排除する厳格さと革新的取り組みを阻害しない柔軟性の両立が課題となる。まず、評価基準の精緻化のため、鉄鋼、化学、電力等の主要高排出セクターにおいて、SBTiの知見やEUタクソノミーの技術要件を参照した定量的なベンチマークを官民連携で開発すべきである。これにより、JCR等の民間評価機関がより客観的かつ厳密に評価を行える環境が整備されるとともに、日本のトランジション・ファイナンスに対する海外投資家のアクセシビリティ改善も期待できる準の画一的な適用には限界がある。日本は、アジア・トランジション・ファイナンス指針のような地域固有の文脈を評価に組み込む柔軟性を積極的に支援し、特に「公正な移行(JustTransition)」の側面を評価項目に導入すべきである。地域固有の意義付けが明確になることは、個人投資家を含む資金提供者のすそ野拡大に寄与すると考える。グローバル基準を遵守しつつも、地域・産業固有の特性や社会的課題を評価プロセスに組み込む柔軟性が資金動員には不可欠である。
3. 提言3::公的支援による初期リスクの低減と投資家理解の醸成
民間資金だけではリスク許容度を超える初期段階の技術開発への投融資が滞る虞があるため、公的セクターによる支援は不可欠である。政府によるGX経済移行債を通じた需要喚起に加え、債務保証や優遇税制等のインセンティブにより、民間資金の動員を図るべきである。特にASEAN 諸国をはじめとする新興国への支援拡充は、ファイナンスの枠組みを通じた日本の国際貢献の機会となる。また、グリーンとブラウンの二元論では捉えきれないトランジション段階の投資価値を正当に評価するため、企業間の比較可能性を担保した情報基盤を整備し、投資家側の知見深化を促すことも重要だ。加えて、水素関連インフラ等の脱炭素に不可欠なインフラ整備を着実に進めていくことは、政策面からトランジション・ファイナンスの信頼性を高めるうえで不可欠と考える。
本稿の分析を通じ、トランジション・ファイナンスの市場基盤を確立する上での最優先課題は、市場の信頼性をボトムアップで築き上げることにあると結論づける。このボトムアップの信頼性とは、企業がTPT等の国際的な開示フレームワークに基づき実効性のある移行計画を策定した上で、それを具体的な財務指標や財務連動型KPIへと落とし込み、市場に証明する企業努力である。しかし、この企業努力を最大限に引き出し、市場全体へと波及させるためには、政府、評価機関、そして投資家による実践的なトップダウンアプローチが不可欠となる。政府主導でセクター別ベンチマークの精緻化や、アジア域内での柔軟な枠組みの構築支援を行うことで、ボトムアップで構築される信頼性の基盤は強化され、市場の健全な発展が導かれる。ボトムアップの信頼性とトップダウンの支援体制の両立は、日本が国際的な信頼を獲得し、高排出セクターの脱炭素移行を金融面から支えるための基盤となる。これを足掛かりとして、我が国は世界のカーボンニュートラル達成を牽引する中心的な役割を果たすことが期待される。
(2025年12月24日 記)
※本稿中で述べた意見、考察等は、筆者の個人的な見解であり、筆者が所属する組織の公式見解ではない
・ 外務省 「2020 年以降の枠組み:パリ協定」
・ 内閣府 「令和3年度 年次経済財政報告」
・ 内閣府 「地域課題分析レポート(2025年8月)」
・ 金融庁・経済産業省・環境省 「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針(2025年版)」(pdf)
・ UL LLC 「Sins of Greenwashing」
・ Carney, M. (2021). Building a private financial system for net zero. DLA Piper.(pdf)
・ ICMA 「Climate Transition Finance Handbook(pdf)」
・ 脱炭素成長型経済構造移行推進機構 「GX Future Report 2025」(pdf)
・ 日本貿易振興機構(ジェトロ) 「EU サステナブル・ファイナンス最新動向 -タクソノミー規則を中心に-」(pdf)
・ Anderson Mori & Tomotsune 「EU LAW NEWSLETTER Issue 12」(pdf)
・ あずさ監査法人 「欧州CSRD/ESRS の概要と3つの対応オプション」
・ 大和総研 「EUの気候ベンチマークが始動」(pdf)
・ Schroders 「サステナビリティ選好とその評価方法」
・日本貿易振興機構(ジェトロ) 「ビジネス短信 欧州議会、CSDDD・CSRD 簡素化法案の立場採択、対象企業の大幅削減へ」
・ 大和証券 家入直希 「週間ESG ニュースメール(2025/11/21)」
・ European Commission 「Commission simplifies transparency rules for sustainable financial products」
・ European Commission 「Questions and answers on the Sustainable Finance Disclosure Regulation」
・ Responsible Investor 「European Commission drops alternatives opt-out in final SFDR review」
・ 大和総研 「EU、「サステナビリティ選好」の反映義務化」(pdf)
・ 小林 永明 「月刊誌・会計情報2023年10月号 IFRSサステナビリティ開示基準(IFRS S1号及びIFRS S2号)の概要」
・ IFRS「Transition Plan Taskforce resources」
・ 梅村 拓実 「気候移行計画とTPT 開示フレームワーク(1)気候移行計画の概要」
・ 柏木 爽良、山下 泰之 「気候移行計画とTPT 開示フレームワーク(2)TPT 開示フレームワークの概要」
・ 長谷川 林太郎、山下 泰之 「気候移行計画とTPT 開示フレームワーク(3)TPT 開示フレームワークと各種開示基準の対応」
・ SSBJ 「サステナビリティ開示基準」
・ PwC Japan 有限責任監査法人 「ISSB/SSBJ(IFRS/日本版サステナビリティ開示基準)対応支援」
・ DNV ビジネス・アシュアランス・ジャパン株式会社 「附属書 – セカンド・パーティ・オピニオン」(pdf)
・ 株式会社日本格付研究所 「JCR グリーンファイナンス評価手法」
・ 株式会社日本格付研究所 「JCR クライメート・トランジション・ファイナンス評価」(pdf)
・ 株式会社日本格付研究所 「クライメート・トランジション・ボンド・フレームワーク評価」
・ Responsible investor 「Climate Bonds Initiative launched certification scheme for corporate transitions, SLBs」
・ ICMA 「Guidelines for Green, Social, Sustainability and Sustainability-Linked Bonds External Reviews」
・ WWF 「Science Based Targets イニシアティブ(SBTi)とは」
・ Asia Transition Finance Study Group 「Asia Transition Finance Guidelines」
・ ASEAN TAXONOMY BOARD 「ASEAN TAXONOMY FOR SUSTAINABLE FINANCE VERSION 4」(pdf)
・ ICMA「Transition Finance in the Debt Capital Market」
・ 関西電力 「環境への取組み」
・ JFE ホールディングス 「気候変動問題への取り組み」
・ POSCO 「Climate Action」
・ PTT グループ 「Investor Update January 2025」(pdf)
・ PTTEP 「PTTEP moves forward with Thailand’s first CCS project at Arthit field to advance the national Net Zero goal」
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