三菱UFJ信託銀行 資産運用情報 財政拡張の限界と通貨の信認~世界的な財政拡張と日本の選択~

打越 広樹
三菱UFJ信託銀行
年金運用部 市場分析戦略G 調査役
2017年4月 日本銀行 入行
地域経済の調査・分析および金融機関の考査・モニタリング業務に従事
2025年9月 三菱UFJ信託銀行 入行
マクロ分析及び信託勘定における資産配分戦略業務に従事
Ⅰ.はじめに
財政拡張とは、国が行う財政政策の一種であり、歳出拡大や減税により景気を刺激する手段として長年位置付けられてきた。しかし、2008年のリーマンショックや2020年のパンデミックを経て、その規模や役割は従来から変化している。この間、財政政策の効果や限界については、財政乗数を用いた経済効果の検証や債務水準等を踏まえた財政の持続可能性など、伝統的な研究に基づいた議論が数多く進められてきた。他方で、金融市場から見た際に、金利や為替の変動がその時々の財政政策等の評価を反映していることを踏まえると、市場の反応の根底にある「通貨の信認」といった貨幣的側面との関係を考えることも重要だと思われる。そこで本稿では、財政拡張の歴史的変遷を振り返るとともに、先行研究を基にその効果や限界について改めて整理する。そのうえで「通貨の信認」が何に支えられ、市場にどのような形で評価・反映されるかを、ポリシーミックスの観点を取り込みながら整理・分析を行う。最後に、日本を例に取り上げ、現状の立ち位置と今後注視すべき指標について確認する。
Ⅱ. 財政拡張の変遷
世界の財政拡張を振り返ると、近代以前から戦時下において軍事費用の調達を目的に財政支出が増加する局面はあったが、平時では古典派経済学に則った「均衡財政主義」のもと、歳出と歳入をバランスさせる財政運営が取られていた。こうした発想を大きく転換させたのが、1929 年に始まった世界恐慌と、1936 年に裁量的な財政政策を理論的に確立させたケインズ経済学の台頭であった。その後、財政拡張は不況時を中心とした景気刺激策として世界各国で繰り返し活用され、現在ではさらにその規模や役割を変え、金融政策と並ぶ主要な政策手段となっている。以下、米欧日における財政拡張の変遷を図表1に整理した。
| 年代 | 米国 | 欧州 | 日本 |
|---|---|---|---|
| 1930年代 | ニューディール政策 需要創出主体の政府へ |
戦前は均衡財政重視 意図的な拡張は行わず |
高橋財政 積極財政による不況脱出 |
| 1940年代 終戦 |
戦後に平時財政へ | 戦後復興+福祉国家の構築を開始 | ドッジ・ライン(超均衡財政)でインフレ抑制 |
| 1950年代 | 朝鮮戦争で軍事費増 財政拡張の再開 |
福祉国家進展 社会保障制度強化 |
高度成長期 建設国債で社会資本整備 |
| 1960年代 | ケネディ減税 財政赤字の容認へ |
福祉国家の拡充 公共支出の増加 |
均衡財政維持 |
| 1970年代 オイルショック |
ニクソン・ショック 金本位制停止でインフレ進行 |
景気悪化+高インフレ 英国 IMF支援要請 サッチャー政権 |
赤字国債の発行常態化 |
| 1980年代 | レーガノミクス 双子の赤字、財政規律の後退 |
財政規律重視 緊縮政策強化 |
財政赤字構造が定着 |
| 1990年代 | 財政赤字の拡大継続 | マーストリヒト条約 通貨ユーロの導入 |
バブル崩壊後 大型経済対策繰り返し |
| 2000年代 金融危機 |
リーマンショック 景気刺激、金融安定化 |
景気減速で財政赤字拡大 | 長期低迷期 公共事業中心の財政出動 |
| 2010年代 | 景気刺激策の継続 | 欧州債務危機、財政緊縮要請が景気悪化に拍車 | アベノミクス下で機動的財政政策+金融緩和 |
| 2020年代 コロナ禍 |
所得補償を中心とした 財政出動 |
次世代EU・共同債務 英トラスショック |
給付金・雇用助成 巨額財政出動 |
1. 米国
(戦前)
米国における財政拡張の歴史は、1933年のルーズベルト大統領就任後に進められたニューディール政策に遡る。当時、世界恐慌に陥っていた中で就任したルーズベルト大統領は、従来の古典派経済学における思想に囚われずに、政府が責任を持って経済再建を主導するとの考えを示した。具体的には、政府機関の設立を通じた公共事業の発注による直接的な有効需要や雇用の創出のほか、失業保険や厚生年金など社会福祉法案の策定を通じた政府主導の社会基盤の整備・構築に積極的に取り組んだ。他方、財政赤字に対しては慎重であり、増税など歳入確保にも取り組んだため、財政赤字/GDP比は1935年に約▲15%にまで拡大したが、1938年には▲10%程度にまで縮小した(図表2)。この点だけをみれば、従来と財政運営に大きな違いはないようにもみえるが、ニューディール政策の歴史的意義は、古典派経済学が基礎としていた「小さな政府」の考えから、政府が需要創出の主体に役割を転換し、福祉国家へとつながる「大きな政府」の基盤を構築したという点にある。
(戦後)
第二次世界大戦の終結(1945年)により、一時的に平時財政に戻ったものの、ソ連との冷戦や朝鮮戦争(1950年)により、軍事費を中心とした財政拡張が再び進展した。その後、より現代的な財政政策、すなわち大規模な赤字を許容する財政拡張が本格化したのは1960年代半ばである。1961年、景気後退と6%台の高失業率に直面する中でケネディ政権が発足した。当初は均衡財政の原則との整合性から財政拡張に慎重であったが、次第に不況の本質を需給のゆがみと捉え、積極的な需要刺激が必要との認識を強めた。これと同時に、財政拡張が支出増ではなく「減税」によるものであれば、国民や議会の支持を得やすく、政治的な抵抗が少ないとの理解が進んだ。この結果、政権は減税政策へと舵を切ることとなった。
ケネディ大統領は、1963年に凶弾に伏したが、政策思想を継承したジョンソン政権下で、1964年にはいわゆる「ケネディ減税」が成立した。これは、米国で初めての意図的な大型 減税であり、実施後には失業率が4%以下にまで低下、長期的な景気拡大に繋がった。一方、ジョンソン大統領は、「偉大な社会」構想のもとで社会保障支出を拡充したが、同時期にベトナム戦争にかかる軍事費も膨らんだ結果、財政は慢性的な赤字基調に転換した。
1971年のニクソン・ショックによる金本位制の停止は、通貨発行の制約を緩和させたが、その後のインフレ高進を招くことなる。1980年代に入りレーガン政権では、「レーガノミクス」の名の下でインフレと景気停滞の打破のため、「小さな政府」への回帰を標榜した。もっとも、実際には大型減税と国防費の増額を軸とした財政拡張であり、結果的に財政赤字の拡大と経常赤字が並存する「双子の赤字」が常態化した。この頃には均衡財政に対する政治的な規律は大きく後退することとなった。
(現代)
21 世紀以降は、危機対応として異次元の規模で財政拡張が進められている。2007年のサブプライム危機と2008年のリーマンショック後には、ブッシュ政権やオバマ政権のもとで金融システムの安定と需要下支えを企図した多額の景気刺激策が実行された。直近では、2020年の新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、トランプ・バイデン両政権のもとで約5兆ドルの巨額な財政出動が実施された。これらは従来の公共事業中心ではなく、政府が個人の所得補償を行うという新たな側面を強めたのが特徴である。
2. 欧州
(戦前~戦後)
欧州では、戦時下を除いては、第二次世界大戦前に米国のような意図的な財政拡張は行われず、伝統的な均衡財政が重視されていた。本格的な財政支出の拡大は、戦後復興および、これに続く福祉国家の建設とともに進展した。戦後は、社会の安定と格差是正を最優先課題と位置づけ、「ゆりかごから墓場まで」の言葉に代表される高福祉・高負担の大きな政府を志向した結果、社会保障や公共サービスへの支出は構造的に拡大した。
しかし、1970年代の景気悪化が、欧州各国に対して均衡財政の必要性を改めて認識させることとなる。1973年のオイルショックを機に、欧州各国ともに景気悪化と高インフレが進展、通貨の下落も進んだ。特に英国では、財政赤字と経常赤字が同時拡大する中でポンドが暴落。対ドル為替レートは、1975年3月の2.43ドル台から1976年11月には1.6ドルを割り込むなど、3割超の減価となった。この結果、1976年末に先進国では異例ながら、IMFに資金救助を要請。この条件として財政再建を余儀なくされた。その後、1979年から新政権を担ったサッチャー首相のもとで、本格的に「小さな政府」への回帰を図り、他の欧 州各国も同様に、1970年代の経験を教訓に財政規律を重視する姿勢を強めることとなった。
(ユーロ設立期)
こうした経験は、ユーロの設立にも大きく影響を与えている。1992年に欧州連合の設立および統一通貨ユーロの導入等を目的とした「マーストリヒト条約」に調印。同条約は、加盟国に対して「財政赤字をGDP比3%以内、政府債務は同60%以内」に抑制することを求めており、まさに「財政規律が通貨安定の条件」とする思想が根底にあることが伺われる。
この思想と現実が衝突した象徴的な事例が欧州債務危機である。2010年頃にギリシャの財政赤字が表面化すると、同国の債券価格は急落。これが各国に飛び火し、欧州全体の金融不安にまで繋がった。EUやIMFは資金支援の条件として緊縮財政を求めたが、これが結果的に景気悪化に拍車をかけ、2012年に当時のドラギECB総裁がユーロ防衛に向けた無制限の国債買入を行う姿勢を示し、市場不安の後退を促すまで、影響は長期化した。
(現代)
EUでは、2020年の新型コロナウイルス感染症が蔓延する中、未曽有の危機対応として「次世代 EU」を創設し、自らが市場調達を行う共同債務を導入した。これは、「財政は各国の責任」とする従来の原則を、危機時において補完するものであり、共同体としての強固な連携に基づく財政支援の枠組みを構築したという点で、歴史的な変化の象徴となった。
3. 日本
(戦前~戦後)
日本における財政拡張の歴史を遡ると、1930年代の世界恐慌期に当時の大蔵大臣を務めた高橋是清による「高橋財政」が起源として挙げられる。これは、日銀の国債引き受けを財源とした財政拡張策であり、ケインズ経済学が世界的に広まるよりも前に行われた積極財政が、不況脱出に貢献した先駆的な事例として知られる。
戦後、日本ではドッジ・ラインによる超均衡財政を経て、高度経済成長期に建設国債を中心とした社会資本整備を進めたが、この時期は依然、均衡財政が概ね維持されていた。もっとも、1973年のオイルショック後に景気後退入りしたことで、財政政策は転換期を迎える。すなわち、政府が歳入不足の補填を目的に赤字国債の発行を常態化した結果、慢性的な財政 赤字の構造が定着。さらに、1990年代初頭のバブル崩壊を受けて、政府は景気後退を食い止めるべく公共事業を中心とした巨額の財政出動を繰り返した。これらは一定の景気下支え効果はあったものの、日本経済は本格的な回復には至らないまま、長期低迷期に突入した。この点、現在の日本の政府債務残高の対GDP比は、主要先進国の中で最も高い水準にあるが、この時期を境に急速に上昇している姿が確認できる(図表3)。
(現代)
2012年末に発足した第2次安倍政権は、「アベノミクス」の第2の矢として「機動的な財政政策」を掲げた。ここでは、デフレ脱却を目指して金融政策と緊密な連携を図るもとで、国土強靭化を企図して公共投資を加速させたほか、消費税引き上げに伴う景気腰折れの回避を目的とした大規模な経済対策が常態化することとなった。これにより、財政拡張は景気循環の調整のみならず、経済成長の持続性を支えるための恒常的な手段としての役割を強めていった。また、2020年以降のコロナ禍においては、米欧諸国と同様に、未曽有の財政拡張により経済の下支えを図った。ここで定額給付金や雇用調整助成金の特例措置など、家計や企業への直接的な支援が行われたことは記憶に新しい。

(注)1960年以降は右軸で表示

III.財政拡張の効果と限界
1.財政政策が経済に与える影響
財政政策は、様々な経路を通じて経済に影響を及ぼす。ケインズ経済学では、公共投資は直接的な需要創出に加え、企業収益の増加を通じて雇用や賃金を押し上げ、家計所得の増加を通じて個人消費の拡大を促すという間接的な波及効果を伴うと考えられている。これらを総合して財政支出の経済効果を定量的に捉える指標として、一般に「財政乗数」が用いられる。財政乗数は、財政支出の変化に対してGDPがどの程度変化するかを示すものである。例えば「財政支出の増加額<GDP増加額」であれば財政乗数は1を上回り、支出規模以上の経済効果を意味する。反対に、「財政支出の増加額>GDP増加額」であれば財政乗数は1を下回り、経済効果が相対的に小さいことを示す(※1)。ただし、先行研究では財政乗数が景気局面や金融環境、政策手段の違い等によって大きく変動し得るとされており、特定の妥当な水準が存在するわけではないほか、推計方法による影響も大きい点には留意が必要である。
※1 財政乗数の算出方法には、一時点の財政支出と分析期間内におけるGDPの最大増加額を対比する場合と、分析期間内における支出総額とGDPの累積的な増加を対比する場合が存在するが、本稿では主に後者(=累積乗数)を指す。
① 景気局面と財政乗数
Berge et al. (2020) は、米国を対象に景気局面に応じた財政乗数を推計し、景気後退期には財政乗数が 1.8にまで上昇するが、好況期には0.6未満にとどまるとして、景気後退期における効果が高い傾向にあることを示した(図表4)。これは景気後退期には需要不足で不稼働の資産が多く、財政支出の増加が生産や所得増加に繋がりやすいのに対して、好況期には需要超過の中で追加の供給余力に乏しく、経済への波及効果が限られやすいためと整理できる。この点、Blanchard and Bernanke (2023)は、パンデミック後の米国経済を対象に物価と賃金の相互作用を考慮したモデル分析を行い、供給制約下での需要刺激策が生産拡大よりもインフレを招きやすい点を指摘している。このことは、好況期における財政拡張の効果が物価上昇に相殺されやすいことを示唆している。
② 金融環境と財政乗数
Miyamoto et al.(2017)は、日本を対象に金融環境に応じた財政乗数の分析を行った。これによると、政策金利がゼロ近傍の期間には財政乗数が2.5程度に達し、高金利環境下を大きく上回ることを示している(図表5)。これは、需要不足により経済への波及余地が大きいことに加え、中央銀行による金利コントロールが市場の信認を得ているとの前提のもとでは、政策的な金利抑制を堅持することで、期待インフレ率の上昇が、実質金利の低下を招き、需要のさらなる押上げに繋がるためとされている。
③ 政策手段と財政乗数
政策手段の違いでも財政乗数が示す経済効果は異なる。Gechert et al. (2013)は、既存の財政乗数に関する合計104本の研究を用いて、財政政策の手法による違いを定量化して分析 (図表6)。これによれば公共工事など直接的な財政支出による乗数は、減税政策や給付金などの移転支出よりも大きいとされる。前者が直接需要を創出する一方、後者は家計の可処分所得を増加させるが、実際の消費の増加は、所得増加分のうち消費に回す割合(限界消費性向)に依存するため、需要刺激効果が低下しやすいためと整理される。



2.財政拡張の限界
上記で確認したように、財政乗数、すなわち財政政策の効果が景気循環や金利環境、政策手段等により変動し得るという点は、同時に財政拡張に限界が存在することを示唆している。以下では、財政拡張における代表的な限界の仕組みについて、整理する。
(1)クラウディングアウト
財政政策の議論の中で、最も古くから指摘されてきた限界の一つが、「クラウディングアウト」である。これは、福田、相馬(2021)によれば「財政支出の拡大によって金利が上昇 する場合、民間投資が減少する」現象を指す(図表7)。この点、多くの先行研究において、特に金融引締め局面や高債務な財政下などの条件を加えた場合に生じやすいとされている。 ただし明確な検証をした研究が多くない点には留意が必要である。

(2)非ケインズ効果
非ケインズ効果は、これまで見てきた財政拡張(公共投資や減税)が需要増加を通じて国民の可処分所得の拡大に繋がるとする「ケインズ効果」の対になる概念である。Giavazzi and Pagano (1990)によれば、財政緊縮により将来の増税や支出削減の必要性が低下し、将来の可処分所得の増加が予測されれば、現在の消費や投資が増加し得ると指摘している。
この考えに基づき、Giavazzi and Pagano (1996)では、大規模かつ持続的な財政拡張は、逆に将来の増税や財政緊縮の確率を高めるとの懸念を通じて、民間消費を抑制し得ると論じている。財政拡張の手段(政府消費、税、移転)ごとに、OECD諸国のデータを用いた分析では、政府消費1単位当たりの増加が民間消費を約1割押し下げるとの推計を示している。特に、債務残高が高水準な局面では人々の将来不安が強まり、減税や移転支出の拡大を進めても、家計は恒常的な所得増加を見込まず、貯蓄を増やそうとする傾向があるとしている。
(3)高債務による財政の閾値と硬直化
国の債務残高の水準も、財政拡張による弊害が生じる懸念が高まる要因となる。先行研究 Ilzetzki et al. (2013)(※2)では、債務水準と財政乗数の非線形的な関係に対する指摘がみられ、一定の閾値を超えると政策効果が減退する可能性が示唆されている。また、巨額の債務自体が政府予算の硬直化に繋がり、将来の危機時に機動的な財政支出を行う余地を低下させうる。さらに、債務水準が極端に高い場合、わずかな金利上昇でも利払い負担が急増するため、財政の持続可能性に対する懸念を背景とした資本流出や通貨安を引き起こしやすい。こうした環境は、結果的に輸入インフレや更なる金利上昇を招く悪循環に陥るリスクをはらんでいる。
これらの課題は、いずれも財政拡張の効果や持続可能性が、単に支出規模や債務水準だけでなく、財政支出が経済全体の通貨供給やその価値の安定性にどのように影響を及ぼすか、という点に左右されることを示している。したがって、これら課題の背後にある構造を捉えるためには、政府と民間の信用創造の仕組みを整理することが不可欠である。
※2 債務残高対GDP比が60%未満の国では財政乗数がプラスとなる一方、60%を超える高債務国では乗数がゼロ近傍、あるいはマイナスに転じると推計した。
3.政府と民間の信用創造
財政拡張を行う場合、一般的には政府のキャッシュフローは、歳出が歳入を上回る状態となる。この歳入不足の補填を目的に国債が発行されるが、近年その規模拡大により、国債は今や単なる補完的な役割ではなく、租税に並ぶ重要な財源として位置付けられている。
国債発行は、政府における資金調達手段の一つであるため、しばしば民間部門に存在する既存の余剰資金を政府が借り入れる行為、すなわち資金の移転として捉えられがちである。もっとも、資金循環の観点からみれば、国債発行は新たな貨幣創出とみなされる。図表8の通り、①政府が国債発行を行うと、買い手の民間銀行が中央銀行に預け入れている当座預金を通じて政府に資金が振り替えられる。その後、②政府が公共事業等の支出を行えば、③銀行がその支払い指示に基づき、家計や企業の口座に記帳処理を施す。この瞬間、預金通貨が生まれ、最終的には民間部門全体の預金増加に繋がる(戸村,2024)。これは、民間銀行が貸出により預金を創出する、いわゆる「信用創造」と同様の仕組みである。したがって、これらの一連は、国債発行を起点とした「政府による信用創造」であると整理できる。

政府による国債の発行と民間銀行による貸出の実行は、いずれも事後的に預金の増加をもたらす信用創造という点で共通しているが、その持続可能性や限界には決定的な違いが存在する。銀行貸出は、預金や信用コストを踏まえた採算性のほか、自己資本比率や銀行勘定の金利リスクなどの規制、または借り手の返済能力を含めた与信先管理など、規制や実務的な制約から、実行可能な融資量は自ずと規定される。一方、政府の信用創造には、自国通貨を自ら発行できる主体として、財務的な意味での返済不能(名目上のデフォルト)という制約が存在しないと考えることができる。これを特に強調するのが、現代貨幣理論(MMT)である。MMTによれば、自国通貨を発行できる政府は、自国通貨建て国債の償還能力を常に有するため、技術的な債務不履行(デフォルト)に陥る懸念はない。したがって、許容されるインフレの範囲内であれば、積極的な財政拡張が可能であるとする。MMTの主要な提唱者である Kelton (2020)は、税は政府支出の財源ではなく、インフレ抑制や所得再分配のための調節装置であると位置づけており、政府支出の唯一の制約は財政赤字の規模ではなく、需要超過が生み出すインフレ率であると指摘している。
しかし、政府が理論通りに無制限に信用創造を拡大することができるわけはなく、実際には、通貨価値の維持という実質的な制約に直面する。Pally(2019)は、MMTが「政府の支払能力」と「通貨の購買力維持」を混同していると批判し、名目上の償還が可能であっても、通貨価値の急落や制御不能なインフレという形で実質的な制約が顕在化するリスクを指摘している。また、Leeper (1991)や Sargent and Wallace (1981)によれば、財政が無制約に拡張して国債残高が累積する場合、中央銀行は物価安定よりも政府債務の持続を優先せざるを得なくなると指摘。これは、金融政策の独立性が形式的には維持されても、実質的には財政状況に支配される状態を意味している。実際に、IMFは、高債務国において金融引き締めが財政悪化を招き、政策運営が制約されるリスクに警鐘を鳴らしている。
この点、日本は低インフレと通貨安定というMMTが前提とする環境の変化を受けて、市場の制約が顕在化し始める過程を示した一例と捉えることができる。日本は1990年代以降、累積の債務残高を増やしながらも、長期にわたり低インフレと低金利を維持してきた。この点、低金利は日本銀行による大規模な国債買入を中心としたイールドカーブ・コントロール(YCC)の影響が大きいほか、需要不足が続く中でインフレ圧力が限定的だったことも影響している(図表9)。いずれにせよ、結果として債務残高がGDP対比で250%に達しても、金利負担は小さく、財政への信認が揺らぐ事態には至らなかった。しかし、2022年以降は、エネルギー価格や円安進行からインフレ率が上昇し、日本銀行は政策の修正に迫られることとなった。利上げサイクルに転じたことで、長期金利は徐々に上昇しており、今後の財政・金融政策は、利払い負担の増加を意識しながら慎重な舵取りが求められる局面を迎えている。

(出所)Bloomberg より三菱UFJ信託銀行作成
4.通貨の信認とは
財政拡張が国債発行を伴う政府の信用創造であることを踏まえると、その限界は債務水準そのものではなく、市場における当該国の通貨に対する信認に依拠すると整理できる。通貨には一般に3つの機能(交換、価値保存、価値尺度)があるとされる。現代の通貨は金などの裏付けを持たない不換紙幣であり、紙幣や貨幣それ自体に実質的な価値がない中でも、これらの機能が発揮されるのは、通貨への信頼が社会に共通認識として浸透しているためである。言い換えれば、この信頼こそが「通貨の信認」であり、その維持は通貨価値の安定が担保されていることが不可欠である。この点、「通貨の信認」が具体的に何によって支えられるかは、各国の経済基盤や市場構造によって区々である(図表10)。
| 通貨 | 構造的な支え | リスク要因 | 市場伝達の経路 |
|---|---|---|---|
| 米ドル | 国際的地位(基軸通貨) | 双子の赤字 政治リスク(債務上限) |
国債利回り上昇 |
| 日本円 | 国債の国内保有比率 | インフレ、金利上昇 円安進行 |
金利上昇、通貨安 |
| ユーロ | ECBの政策的枠組み | 加盟国間の経済格差 財政権限の分散 |
国債スプレッド拡大 ユーロ安 |
| 英ポンド | 高度な金融市場インフラ※ | 双子の赤字、インフレ 財政規律への不信感 |
金利急騰+ポンド急落 |
※英国の構造的な支えについては、本文にて整理
米国(ドル)の場合、強固な経済基盤に加え、世界の基軸通貨としての国際需要や、金融市場における高い流動性が圧倒的な信認を付与している。いわゆる基軸通貨の特権であり、米国は巨額の財政赤字を抱えながらも、これまでのところドル建て資産(特に米国債)は「安全資産」として選好され続けている。
日本(円)の場合は、これまで金融緩和による影響や低インフレが信認の維持に影響を与えてきた。ただし、その前提には特殊な需要構造がある。すなわち、日本では国債の9割程度が国内で消化されており、国内比率が7割程度にとどまる米国債と比較してはっきりと高い。これは、経常黒字を背景とした潤沢な国内資金と、円建て資産に対する強い信頼が、政府債務の安定的なファイナンスを支えてきたことを意味する。しかし、近年のインフレを受けた日本銀行の利上げにより状況は変化している。政策金利は、2025年12月に0.75%と30年ぶりの水準にまで引き上げられ、長期金利は2%を超過した。他方で、主要国との比較で依然低金利にとどまる中、対ドル為替レートは歴史的な円安水準で推移している。すなわち、日本は高債務を抱えるもとで、事実上「通貨安」の選択を余儀なくされている可能性がある。
欧州(ユーロ)は、加盟各国の財政とECBの信認の双方に影響を受ける構造となっている。単一通貨でありながら財政権限が各国に分散しているため、一国の財政がユーロ全体の信認を損なう連鎖的なリスクを抱えており、欧州債務危機の教訓から、財政赤字の閾値を規定する安定成長協定の厳格化(※3)やECBによる国債買入機能の強化が図られたが、加盟国間の経済格差や政治的な統合の遅れが、依然として「通貨の信認」の重石となっている。
※3 2024年4月の改正により債務残高が一定水準を超える国に対し、数値目標に基づく毎年の債務比率削減が義務化された。
こうした通貨の信認が市場でどのような意味を持つかを理解するうえで、英国の経験は示唆に富む。英国は成熟した金融市場を持つ一方で、米国のような基軸通貨特権を有していない。また、英国債の国内保有比率は7割弱にとどまり、ユーロ圏のように中央銀行による域内国債を下支える枠組み(※4)も存在しない。このため、財政運営に対する市場の懸念が高まった場合、その影響が市場の価格に比較的表れやすい構造にある。2022年9月に発足したトラス政権が、財源の裏付けに乏しい大規模減税策を打ち出した際、市場は財政悪化を懸念し、英国の金融市場は大きく動揺した。この事例は、先進国でも通貨の信認が揺らげば、市場が将来のリスクを織り込む形で、財政運営の自由度が実質的に制約され得ることを示している。
※4 財政再建を条件とする無制限の国債買入れ(OMT)や、加盟国間の不当な金利差拡大を防ぐ国債買入れ措置(TPI)を指す。
このように、通貨の信認は伝統的には、財政政策や金融政策、国際的地位等によって支えられてきた。もっとも、近年の民間デジタルマネー、ステーブルコインの台頭は、こうした枠組みに新たな視点を加えさせようとしている。
ステーブルコインとは、米ドルなどの法定通貨に価値を連動させることを目的とした民間発行のデジタル通貨であり、その多くは発行額と同等の国債や預金を保有する。この点、2024年以降の米国短期債の残高動向をみると、足もとにかけて主要ステーブルコインが大幅に積み増した姿が確認されている(図表11)。結果として、足もとの米国債券保有残高は、韓国やドイツなど主要国の一部を上回る水準にまで達しており(図表12)、実際に BISはステーブルコインが米国短期債の新たな需要家として機能していると分析している。これは、米国の財政面において、民間発行体が補完的に支え得る可能性を示唆している。また、Gorton and Zhang (2021)は、ステーブルコインを「民間のナローバンク的役割」と位置づけているが、これは結果としてドルの国際的優位性をデジタル空間で補完する側面を持つ。


(注)ステーブルコインの保有額は、Tether社とCIRCLE社の準備資産のうち米国債合計(含リバースレポ取引の担保資産)。図表 11 は各国が保有する米国債(償還期限1年以内の短期債)の増加額: 22/12月末から 25/10月末までの増加額。
図表12は各国が保有する米国債(全償還期限)の残高:Tether社が25/9月末時点、その他は 25/11月末時点。
(出所)米国財務省、Tether、CIRCLE より三菱 UFJ 信託銀行作成
しかし、こうした新たな需要構造は、同時に通貨の信認構造を複雑化させるリスクを内包している。まず、通貨価値の安定が「中央銀行の政策」だけでなく、「民間発行体のガバナンスや規制環境」という外部要因に依存するようになる点である。この点、主要国の中央銀行、金融当局らで構成される、金融安定理事会(FSB:Financial Stability Board)は、金融システム不安時に償還が集中すれば、裏付け資産である国債の投げ売りを招き、国債市場や短期金融市場の動揺を一段と激化させる悪循環を生むおそれがある、と警告している。すなわち、ステーブルコインが市場をかく乱する要因になり得る可能性を示唆している。
また、金融当局の管理外で流通するデジタルマネーは、マクロでみたマネーストック等の動向を不透明にしかねない。これは、通貨の信認が「国家単位」から、テクノロジーを背景とする「制度・発行体単位」へと部分的に分散することを意味する。各国当局がCBDC(中央銀行デジタル通貨)の検討や規制整備を急ぐ背景には、こうした通貨の信認にかかる主導権を意識している側面もあろう。今後、一段とデジタルマネーの拡大が展望される中、財政や金融政策が市場で評価される過程においては、制度設計や民間発行体への信頼といった要素も、その評価に影響を与え得る点に留意が必要である。
IV. 通貨価値の信認と市場の評価からみた日本の先行き
前章では、財政拡張が国債発行を通じた政府による信用創造であること、そしてその持続 可能性は、政府債務の残高水準そのものではなく、市場における「通貨の信認」によって規定されることを確認した。本章では、この通貨の信認が、市場においてどのように評価され、金利や為替といった価格に反映されるかを、財政政策と金融政策の「ポリシーミックス」の観点から整理する。
通常、インフレ局面や景気回復期には、過熱を抑え、インフレ期待の再加速を防ぐ観点から、財政緊縮と金融引き締めが標準的な対応となる。しかし実際には、長年の低インフレ環境で政策運営が行われてきた結果、デフレ脱却の優先や家計負担への配慮といった政治的要因のほか、債務残高の大きさに伴う利払い費への懸念などから、「拡張的な財政」と「緩和的な金融環境」が併存することがある。これは、現状の日本をみれば理解しやすい。
ここで日本における財政・金融の両政策が物価や金利、為替に対して与える影響を確認するため、簡易的な「ポリシーミックス指数」を作成した。具体的には、歳出額の前年比を「財政拡張度」、各年末時点の政策金利とテイラー・ルール(※5)により導出した政策金利との乖離幅を「金融緩和度」として定義し、両者を標準化したうえで「財政拡張度」から「金融緩和度」を減算している。同指数の上昇は、概ね「拡張的な財政政策」と「緩和的な金融政策」の同時進行を意味する。
※5 米国の経済学者ジョン・テイラーが考案した物価上昇率と需給ギャップに基づき、中央銀行が目標とすべき適正な政策金利を導き出す数式モデル。
以下の図表13で物価との関係をみると、同指数が上昇する局面では、物価上昇率も高まりやすい傾向が確認できる。特に、1980年代後半は旺盛な需要と相まって、需要刺激的な両政策が物価上昇の勢いを強めた可能性を示唆している。また、2022年以降は同指数以上に物価が大きく上振れていることから、あくまで供給要因が大きいと考えられるが、緩和的なポリシーミックスが物価上昇の持続性に影響を与えている可能性は否定できない。

ここで重要なのは、このポリシーミックスが、将来のインフレ率や金利、為替レートを見通す際の基準である「期待」に作用する点である。財政拡張が行われる局面でも、金融政策が物価安定と整合的であると見通されれば、「期待」は安定し価格変動は抑制される。しかし、財政・金融の両政策ともに緩和的となり、政策に対する先行きの不透明感が高まれば、市場は通貨価値に対する不確実性を意識し、リスクプレミアムを要求することとなる。
この点を示したのが図表14および図表15である。図表14で「ポリシーミックス指数」と10年金利の推移をみると、当然ながら長期金利の変動は様々な要因に左右されるため、指数と全ての局面で連動するわけではないが、指数が大きく変化する局面では金利も方向感を伴って動きやすい。例えば、1980年代後半や足もと(図表枠線内)では同指数が1σ上昇すると、長期金利が1%弱上昇していることが見て取れる。

さらに図表15は、「ポリシーミックス指数」と実効為替レートを示したものである。実効為替レートは、対ドルといった二国間の為替レートではなく、貿易相手国全体に対する通貨価値を表す指標であり、通貨の「総合的な評価」を捉えることができる。グラフ上では、上方にあるほど、実効為替レートの低下(円安推移)を示すが、緩和的なポリシーミックスが継続する局面では、円安方向に推移しやすい傾向が確認できる。特に近年は、指数がプラス圏で推移する中で、歴史的な円安で推移しており、市場における日本の財政・金融の両政策に対する慎重な評価が反映されている可能性がある。第Ⅲ章でみたように通貨価値についても価格に影響を与える要素は多く存在するため、政策との関係だけをもって説明することは到底できない。もっとも、金利上昇とともに複数年にわたる政策スタンスが「期待」を通じてそれぞれの価格に影響を及ぼし得る、という見方とは整合的である。

上記では緩和的なポリシーミックスの継続が、インフレ長期化や金利上昇、通貨安に繋がりやすいことを確認した。この点、インフレ下でも政策対応が必ずしも引き締めに向かわない背景の一つには、政治的な制約も存在すると考えられる。特に重要なのは、物価上昇が生活必需品を中心に進行する場合である。こうした局面では、平均的なインフレ率とはまた異なる角度で、家計の負担感を高めるため、政策当局が家計支援を優先する動機となりうる。
この点、トラスショック前の英国における品目別の物価上昇率の分布(図表16)をみると、2022年夏にかけて、食料品やエネルギー関連を中心とした生活必需品(※6)の物価上昇率は、中央値の上昇だけでなく、分布が上下方向へのばらつきを伴いながら拡大していたことが確認できる。一方で、裁量的支出が相対的に多い品目群(※7)では、中央値の上昇はみられるものの、分布の広がりは限定的であった。この点、同一の品目内でも低価格商品ほど価格上昇率が大きくなる、いわゆる「チープフレーション」については、実証研究でも指摘されており、これは結果として、低所得層ほど実質的な購買力の低下に直面していたことを示唆している(※8)。
※6 食料、住宅、エネルギー、ヘルスケア関連の品目の集合群。
※7 アルコール飲料・たばこ、被服・履物、運輸、通信、娯楽・文化、教育、レストラン・ホテル、その他財貨・サービスの集合群。
※8 Institute for Fiscal Studies. (2024)では、英国を対象とした分析で同一商品群でも、価格上昇率が低価格品+34.2%、高価格品+18.3%と差があることや、所得上位10%が経験したインフレ率が下位10%より7.7%ポイント低かったとしている。

同様の傾向は、2018年、2021年、2023年と通貨リラの信認が度々失墜したトルコでも確認できる。図表17で2021年時の品目別物価上昇率の分布をみると、生活必需品の物価がばらつきを伴いながら上昇しており、急速なインフレの「質」悪化が見て取れる。これは単なる物価水準の問題ではなく、社会的な不満や政治的圧力が急速に高まりやすい状況であったことを意味する。トルコは結局、大幅な通貨安に見舞われるもとで、財政再建と金融引締めに追われることとなったが、今なお通貨の信認は回復していないように思われる。トルコに代表されるような新興国では、市場の期待が不安定であるために、通貨安とインフレの負のスパイラルに陥り、通貨防衛的な利上げを迫られやすい構造となっているのである。

いずれにせよ、極端な価格構造の歪みに直面すると、格差是正や家計支援を名目とした財政拡張の政治的正当性が、財政規律を維持するコストを上回りやすくなる。結果として、インフレ下であっても拡張的な財政が選択され、そのこと自体が通貨の信認を損なう引き金として作用すると考えられる。
では、足もとの日本は、これらの海外事例と比較してどのように位置づけられるか。日本の品目別物価上昇率の分布(図表18)をみると、コロナ禍後のインフレ局面を経て、物価上昇率の中央値は上昇しているものの、少なくとも現時点では、英国やトルコのように、必需品価格のみが突出して上昇するような状況には至っていない。こうした状況下でも、近年のように景気対策や家計支援を目的とした需要刺激的な政策が継続されること自体は、マクロ・ミクロの両面からみても非常に大きな意義があるものの、同時にインフレを起こしやすい環境にあるという点は認識しておく必要があろう。

実際に現状の日本の財政・金融両政策に対して、金融市場は将来の物価安定や政策運営への不確実性を意識し、既に警戒感を強めつつある。図表19で示すタームプレミアムは、長期間の資金を固定するリスクに対する上乗せ金利(プレミアム)であるが、足もと明確に上昇しており、将来のインフレや財政運営に対する不確実性が、着実に金利に反映されつつあると理解することができる。
他方、図表20の通り、保険料としての役割を持つ日本国債のCDSは依然として低位で安定しており、日本の信用リスクそのものが急速に高まっているとは評価されていない。これらは踏まえると、市場は現時点で全面的な「危機」を織り込んでいるのではなく、現状のポリシーミックスに対して警戒している段階にあるのではないだろうか。


この市場の警戒感は非常に重要な役割を持つ。それは、こうした状況下では政策当局が自 発的に財政健全化へ転じなくても、市場が要求するリスクプレミアムの上昇を通じて財政運 営の選択肢が狭まり、事実上の財政の調整を強いるというものである。そして留意すべきは、この調整が必ずしも財政破綻など極端な事態を前提としない点にある。長期金利や為替への 警戒が累積し、利払い負担の増加が政策余地を制約しうることを踏まえると、財政拡張の限 界を論じる際には、単年度の赤字や債務残高の水準だけでなく、ポリシーミックスが期待に 与える影響、ひいては金利・為替に反映されるリスクプレミアムとして、タームプレミアム、CDS、実質実効為替レートといった指標を組み合わせて点検していくことが重要である。
現状の日本において、通貨の信認が直ちに大きく揺らいでいる状況にはない。もっとも、インフレ環境下で拡張的な財政が常態化する場合、構造的には新興国型の調整メカニズムが作動する可能性を完全には無視できない。そして、こうした最悪のケースを少しでも想定するならば、これらの指標が示すシグナルを軽視することはできないだろう。
V. 終わりに
本稿では、財政拡張の効果と限界について、「通貨の信認」という視点から整理を行った。財政拡張の限界は債務残高の水準や名目的な支払能力ではなく、その持続可能性は通貨価値の安定に依存している。通貨の信認が将来の期待が金利や為替にどう反映されるか、まさに市場との対話の中にある。
足もとの日本において直ちにその信認が揺らいでいるわけではないが、タームプレミアムの上昇などは、市場が現在のポリシーミックスに慎重な視線を向け始めている兆候は無視しえない。世界的に財政拡張が行われているだけに、CDSや実効為替レートといった市場指標を通じて通貨の信認を多面的に点検していくことが、今後の市場環境を見通すうえで不可欠となるだろう。
(2026年1月21日 記)
※本稿中で述べた意見、考察等は、筆者の個人的な見解であり、筆者が所属する組織の公式見解ではない
【参考文献】
・ Berge, T. J., De Ridder, M., and Pfajfar, D. (2020). When is the Fiscal Multiplier High? A Comparison of Four Business Cycle Phases.
・ Blanchard, O. J., and Bernanke, B. S. (2023). What Caused the US Pandemic-Era Inflation?
・ Auerbach, A. J., and Gorodnichenko, Y. (2012). Measuring the output responses to fiscal policy.
・ Miyamoto, W., Nguyen, T. L., and Sergeyev, D. (2017). Government spending multipliers under the zero lower bound: Evidence from Japan.
・ Gechert, S. (2013). Fiscal Multipliers: A Meta Regression Analysis.
・ Giavazzi, F., and Pagano, M. (1990). Can severe fiscal contractions be expansionary? Tales of two small European countries.
・ Giavazzi, F., and Pagano, M. (1996). Non-Keynesian effects of fiscal policy changes:International evidence and the Swedish experience.
・ Ilzetzki, E., Mendoza, E. G., and Végh, C. A. (2013). How big (small?) are fiscal multipliers?
・ Wray, L. R. (2015). Modern money theory: A primer on macroeconomics for sovereign monetary systems.
・ Palley,T.I. (2019).What’s wrong with modern money theory(MMT): A critical primer.
・ Sargent, T. J., and Wallace, N. (1981). Some Unpleasant Monetarist Arithmetic
・ Leeper, E. M. (1991). Equilibria under ‘Active’ and ‘Passive’ Monetary and Fiscal Policies.
・ Kelton, S. (2020). The Deficit Myth: Modern Monetary Theory and the Birth of the People’s Economy.
・ International Monetary Fund (IMF). Japan: Article IV Consultation / Selected Issues.
・ Jevons, W. S. (1875). Money and the Mechanism of Exchange.
・ Financial Stability Board (FSB). High-level Recommendations for the Regulation, Supervision and Oversight of Global Stablecoin Arrangements.
・ Gorton, G., and Zhang, J. (2021). Taming Wildcat Stablecoins.
・ Institute for Fiscal Studies. (2024). Cheapflation and the Rise of Inflation Inequality.
・ 国立国会図書館(2021)ニューディール期の財政出動
・ 山田敬信(2010).「偉大な社会」とベトナム戦争(1)
・ 飯野公央(1990).ケネディ政権下の税制改革-その背景政策意図-
・ 平方裕久(2009). ケインジアン・プラスからニュー・ライトへ : 1970 年代イギリス経済政策思想の展開
・ 杉之原真子(2020).アメリカの財政政策と政党政治―「債務国家」化は何をもたらしたか―
・ 仲野昭(2014).欧州債務危機とユーロの将来
・ 梅原英治(2024).現代日本の財政政策と財務省の政策思想(XVI) ―『図説日本の財政』を素材にして―
・ 深尾光洋(2012).日本の財政赤字の維持可能性
・ 内閣府(2024)「令和6年度 年次経済財政報告」
・ 福田慎一・相馬尚人(2021).マクロ財政政策の評価と課題
・ 三平剛(2021).乗数効果の低下の要因について
・ 戸村 肇 (2024). 信用創造過程から考える日本の資金循環構造の変化と政府債務の維持可能性
・ 佐藤 一光 (2020)現代的貨幣論の構造と租税論・予算論からの検討
・ 佐藤一光(2024)コロナ禍に対応するための財政支出は財政破綻のリスクを高めたのか?
・ 日本銀行金融研究所 (2024).金融政策と財政政策との相互作用について
・ 金江 亮(2021).書評:ステファニー・ケルトン著『財政赤字の神話』
・ 行岡睦彦(2024).私的主体が発行する「貨幣」の規制に関する覚書-ステーブルコインに関する規制を中心に-
・ 金融審議会 資金決済制度に関するワーキング・グループ(2024)
・ 日本銀行金融研究所(2024).金融政策と財政政策との相互作用について―グローバル金融危機以降のマクロ経済学の展開―
・ 日本銀行(2024).量的・質的金融緩和導入以降の政策効果の計測 ―マクロ経済モデルQJEMを用いた経済・物価への政策効果の検証―
・ 国際通貨基金(2024)「2024 年対日4条協議終了に伴うスタッフ・レポート」
・ 二羽秀和(2022).財政の持続可能性への信認が失われた下での量的・質的金融緩和政策からの出口
・ 日本銀行企画局(2023).中央銀行の財務と金融政策運営
ご注意:
・本資料は、お客さまに対する情報提供のみを目的としたものであり、三菱UFJ信託銀行が特定の有価証券・取引や運用商品を推奨するものではありません。
・ここに記載されているデータ、意見等は三菱UFJ信託銀行が公に入手可能な情報に基づき作成したものですが、その正確性、完全性、情報や意見の妥当性を保証するものではなく、また、当該データ、意見等を使用した結果についてもなんら保証するものではありません。
・本資料に記載している見解等は本資料作成時における判断であり、経済環境の変化や相場変動、制度や税制等の変更によって予告なしに内容が変更されることがありますので、予めご了承ください。
・三菱UFJ信託銀行はいかなる場合においても、本資料を提供した投資家ならびに直接間接を問わず本資料を当該投資家から受け取った第三者に対し、あらゆる直接的、特別な、または間接的な損害等について、賠償責任を負うものではなく、投資家の三菱UFJ信託銀行に対する損害賠償請求権は明示的に放棄されていることを前提とします。
・本資料の著作権は三菱UFJ信託銀行に属し、その目的を問わず無断で引用または複製することを禁じます。但し、第三者に著作権が属し三菱UFJ信託銀行が使用許諾を得て掲載している内容が含まれる場合があり、その部分の著作権は当該所有者に属します。
・本資料で紹介・引用している金融商品等につき三菱UFJ信託銀行にてご投資いただく際には、各商品等に所定の手数料や諸経費等をご負担いただく場合があります。また、各商品等には相場変動等による損失を生じる恐れや解約に制限がある場合があります。なお、商品毎に手数料等およびリスクは異なりますので、当該商品の契約締結前交付書面や目論見書またはお客さま向け資料をよくお読み下さい。












